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努力を好きな人が苦手です
ようこそ、お越しくださいました。
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
もうタイトルからしてダメ人間っぽさを存分に醸し出しているのかもしれないが、根本的に努力が苦手というか嫌いだ。
自己啓発本に記載されているキラキラとした成功譚に膝を叩いて立ち上がり、感化されて行動を始めるような浮足だった生活を送ってきたからなのかもしれない。
浮き足立って行動をはじめた結果、大した効果や成果を得られなかったため「自己啓発本をバカにする」といった愚行をとるような人間だからなのだろう。
冷静に考えれば、そもそも自分自身の取り組み方や成果に至るまでの過程が誤っていたのだが、当時の自分にはそんな冷静なものの見方などできようもなかったので仕方がない。
そんな折、先日STUDY HACKER内に以下のタイトルで記事が投稿されていた。
「努力しないで勝てる人」は戦略的思考に長けている。“よい戦略” に必要なたった3つの要素
自分が努力をせずに勝てる側の人間ではないのに気になったのは「努力をしない」の文言に釣られたからである。別に戦略的思考だとか戦略だとかって、かっこいい文句に惹かれたからではない。
▶︎ 努力を”あえてしない人”は逆算的である
努力を否定するつもりはない。
そもそも努力を継続的にできること、それ自体がとてつもなくえげつないものであるからだ。なんというか、「才能」の一言で済ませてしまえるもので、行動遺伝学的にも努力が先天的なものであるとする説も出ているぐらい、尊いものだ。
それでも他者から見れば圧倒的な「努力」であるのにも関わらず、当人は努力だと思っていないケースはままある。
根本的な話をすれば、努力を努力だと思わない人は自らの目指す成果から逆算的に物事を捉えることを繰り返している人で、根本的には努力とやらを毛嫌いしているのではないか。それは「努力=無駄な行動」だと捉えている可能性が高いからだ。
いわゆる戦略的で聡明な方々というのは、極めて合理的で打算的で合目的だ。
何かを成すために必要な要素を丁寧に分析し、それを達成するための指標を設け、そこから自身の行動に反映させることができる。
努力をしないで勝てる人とは無駄な行動を省くことに努力している人なのである。
▷ 努力が悪いわけではない
努力が悪いのだとは思わないし、むしろ必要なことの方が多いだろう。
要は、必要な箇所に必要な力を注ぎ込むことができているのかが重要なのであって、注ぎ込まれた力が適切な働きをしているのかどうかを把握・分析していることが大事なのだ。
無駄な努力、と呼ばれる戦略的で打算的で合目的な人たちから蔑視冷笑を受ける対象となるような行為・行動は、方向性にはじまり、発揮される力の入れ具合や内容を把握分析できていない場合が多いのだろう。
ぼくは根本的にポンコツ人間であるため、有能な側の人たちから「何でそんなことしてるの」とか「そんな無駄なことするなよ」と非常に強く冷たい言葉で罵られてきた。
当人たちにその意識はないだろうが、いわれた側からするとすごく心に痛みを感じながら癒し方がわからず、ただひたすらに時が経過するのを待つ他になかった。
そうなると、結局は努力をする人間の問題であって、無駄な努力をしてしまう人間の無知さや無能さが悪いことになる。
なんてことだ。救いがなさすぎる。
▷ 努力を努力だと思わない/感じない人
さらに追い打ちをかけるような言説になるが、根本的に努力を努力だと思わない/感じない人がいる。
その人もその人なりに苦労や苦悩を抱えつつ、どうしようもないほどに打ちのめされた経験をしているのだろうし、他人から裏切られては人間不信に陥りそうになったものの、瀕死状態から復活するサイヤ人の如く立ちあがってきたのだろう。
それを努力だというのなら、至極当然のように「そうである!」と答える他にない。
ところが、すでにお分かりのように「無駄な努力が好きな人」や「無駄な努力をしてしまう人」は類似するような経験をしたこともなければ、同様の経験をしたところで這い上がることは不可能だ。
そんな状況から這い上がれるほどにタフで、相応のスペックを身につけているのだとすれば無駄な努力芸人や努力がひたすら好きな人認定をされるようなこともない。
よく「努力を努力だと思わない人」や「努力だと感じない人」は、取り組んでいるもの自体が好きだからと思われることが多いが、それは少し雑な受け取り方だとも思う。
努力を努力だと思わない/努力だと感じない人は、戦略的で逆算的で合目的な思考や行動が趣味なのだ。それをしていないと倒れてしまうぐらい、自然とやってのけてしまうことに何の意識も持たない趣味なのであり、それ以上でもそれ以下でもない。
必死に何かを取り組むことを努力だと思う人がいる一方、趣味的な範囲で軽く「当然でしょ」とゆらりと構えている人のどちらが優位なのかといえば、考えるまでもないだろう。
▷ 努力を好きな人、強いてくる人
反面、努力をすること自体が目的化し、その行動や言動、思考までが好きな人もいる。
こういう、わりとアツくなりがちな人はどうも苦手だ。(これはあくまでもぼくの主観であって感想だ)
自分も努力をしているのだから他人も自分の思う通りに動いてくれることが当然であり、そのような努力を双方に取り組むことが自分だけでなく周囲も含めて幸福に向かうことの大前提だと考えるような人だ。
大抵、そういう人は自らの体験や経験が軸となって論を展開する傾向にある。
過激ないいかたをすれば、自分が受けてきた苛烈な体験は自らを培ってきた原体験となって強く根付いているがために、それを他人にも強いることで自分のような人間ができるはずであると考えてしまっている可能性が高い。
暴力を受けてきたことによって暴力をすることが”しつけ”や"教育"の一環であると考えてしまう場合も、どちらかといえばそういった思考傾向にある人が多い印象を受ける。
自らの体験を軸に据えること、それ自体が悪いものだとは思わないが、他人にまで強いるような態度は改まるべきだろう。
そんな観点から、ぼくは努力を全面に押し出してくる人や努力を他人に強いるような人が苦手である。
もちろん、それが好きな人たちもいるだろうし、それはそれで勝手にやってくれて構わない。
ただ、ぼくには可能な限り接触してきて欲しくない。それだけだ。
ではでは。
えんどう
▶︎ おまけ
▷ 紹介したいnote
仕方なく努力する
仕方なく努力する、とは武井壮が発した言葉だが、それを紹介することからはじまるテキスト。それはもう、大賛成というか、そもそも努力が嫌いな側からすると物悲しいと思わざるを得ないほどに努力が嫌いなので仕方がないだろう。
天才は、1%の閃きに99%の努力を投じている
エジソンを努力の人だと誤解をしている人たちもいるが、エジソンは努力が大事だと述べているのではなく「1%の閃きがなければ99%の努力は無駄である」と発したのであり、どちらかというと努力否定派だ。
正しい努力とは、「手元に経験が残る」ということ。
ぼくはいまだに正しい努力なんてものがあるのかどうかもわからないが、可能な限りダラダラと言ったり、鼻くそをほじりながら臀部をボリボリと掻きむしって横たわりながら生きていきたいと思っているぐらいの堕落人なので、一生かかっても理解できないのかもしれない。
▷ 紹介したい関連書籍
死ぬまで、努力: いくつになっても「伸びしろ」はある (NHK出版新書)
本題とはずいぶんかけ離れた立場の書籍だが、相手型の出方を知らなければ自分の立ち振る舞いを決めることはできないだろう。世の中は情報戦であるからして、相手がどのような思考・行動をとるのかを収集することは非常に有益なもののはずだ。と、思いながら読んだ記憶がある。
▷ えんどうのTwitterアカウント
僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。
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