見出し画像

生活残業(代)をもらえなくなった人たちはどうしてるのか

はじめに

すっかり幻想だとすら思えてくるのだが、平成の30年間では「生活残業」なるものを取得するために残業をしていた就労者がいたらしい。

嘘か誠かを調べることはできないのだが、過去、ぼくが所属してきた企業の中にいたのかどうかすら判断ができないことから”親しくなる”か”あからさまな態度をとっているのか”しか知る由はなかったのではないか。

なぜ、このようなことを言い出したのかというとIT mediaビジネスで「残業=頑張っている」から「残業=無能」へ──変わりゆく働き方が示す、残酷な現実(溝上憲文)」と題された記事が出されていたからだ。

ふと思うのは、そうやって残業代を喜んで受け取っていた人たちはどこへ行ったのか、なんてどうでもいいことだ。

今日はみんなで「追いやられた残業を求める人たち」について考えてみよう。

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。
どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。

「残業=本業」の人たち

みなさんの働く環境には「残業時間になってから本気を出す人」はいないだろうか。ぼくが過去に所属してきた組織には、いたような気もするしいなかったようにも思える。

つまり、わからないのだ。

というのも、残業自体が申請制で事前申告のあった残業と上長に許可を得たものが「残業」として認められるといった職場があったのだが、そこでは就労時間を過ぎてからの「本業」が始まるといっても過言ではない状況が常態化していたからだ。

どういうことか。
就労時間内で取り組みたい業務に取り組むことが容易ではないのだ。

たとえば、学校の教員を想起してもらおう。

いわゆる「学校の先生」は授業をしている間、授業準備や担当となった学校行事の準備などはできない。いくら校務分掌で割り当てられた重要な仕事であろうと、授業を蔑ろにして取り組むことなどできない。

サービス提供の主たる享受者は児童や生徒、学生である。彼ら彼女らが満足できる学校生活を提供するのが教員の本懐なわけで、校務分掌とはそれを満たすための前提条件だ。

つまり、授業があるからといって「準備ができない」「時間が足りない」などと嘆くことはできても「実施することは決まってるんだからやれよ」となるのである。

そうなると通常の業務時間内で終わることなど稀で、基本的には定時で帰宅することなどできず、「残りたいから残っている」と残業を本業化させられるような認識を抱かざるを得なくなる。

このような環境では本人が望む望まないはあるだろうが「残業時間=本業時間」といった認識になることも仕方がないといえなくもない。

残業が本業になっていた人たちは、そこから本気を出さざるを得ない状況や環境だったと捉えてもいいのではないか。

無能には厳しすぎる時代

上記は教員の話であるため、一般的なカイシャインとは異なる点は注意が必要だ。

1分単位で残業代が支給される企業もあれば、「少しでも賃金を上乗せしたい」のか「その時間分を働かせ放題にしたい」のかはわからないが、固定残業(みなし残業)代を適応させる企業がある。

仮に「固定残業(みなし残業)時間」が20時間だった場合、月の所定労働時間が160時間/月が180時間/月となり、上積分の20時間分の残業代を織り込んだ労働条件が記載され支給される。

本当に残業をしようがしまいが関係なく、その賃金を支払うというわけだ。

1分単位や15分単位、30分単位で残業代を支給する事業者とみなし残業代を提供する事業者。

どちらが太っ腹なのかは知らないが、少なくとも残業をしたくてする人とせざるを得ない人との間には労働生産性に大きな乖離があると見ていいだろう。

そうなると、同じ労働時間であったとしても成果物や納品物、何よりも実績に大きな差が生じてくる

全く同じ就労条件、労働条件だったと仮定すると、同じ残業時間であったとしても提供される対価(成果)が特に目立った功績のないAと大きな成果を残すBとではコストパフォーマンスに大きな差があると言える。

雇用主の視点からすると、Bは格安で雇用できていると認識するがAは割高な人件費に映るだろう。

おそらく、Bは有能な人材であるためドンドンと能動的に仕事をこなしていくだろうし、進んで「残業をしたい」「もっと働きたい」と申し出てくるのだろうが、Aは違う。

仕事に向けて能動的な感情を抱くこともなければ、効率的な業務をしようとなんて微塵も思っていない。ただただ、上から降ってきた仕事をこなすのに一生懸命なのに、終わらないから残業をしているだけだ。

書いていると悲しくなってきたのだが、冒頭で引用している記事内には「残業=無能」とも記載されており、どうやら短時間で成果を出すことが標準化される世界線に突入しているようだが、どうも無能側からすると随分とツラい世界線になってきたと言わざるを得ない。

おわりに

無能側からすれば、残業があろうがなかろうが関係ない。とにかく身銭を稼ぐために働いているのであって、自己実現などといったキラキラした姿など思い描く余裕はないのである。

仕事は自己実現などと自分を表現する場所なのではなく、あくまでも生活するために必要な金を手に入れるための手段でしかない。平成や昭和のサラリーマンたちの中には生活残業と呼ばれる働き方をしていた人たちもいたと聞く。

就業時間内ではダラダラとしておきながら、残業時間になって重い腰を上げて仕事をしはじめるなど、わざわざ割増賃金を目当てに残業をしていたというのだ。

真しやかに信じられない話だが、それに向けて怒り心頭の人たちいわく、実在した人たちらしい。そんな話を思い出しながら現状の残業=悪といった認識や風潮を鑑みるとわかることがある。

「残業をすれば”がんばっている”と評価されていた」などというが、それは違う。一貫して「成果を上げる人物」が評価されていたのであって、何の成果も出さずに残業ばかりしている人物は評価されないのだ。

それは評価をされるように見繕う、表現するのが上手なだけで本質的に仕事によって成果が出ているかどうかは全く別次元の話になる。

今も昔も変わらずに、無能には生きづらい世の中であることに何ら変わりはないのだ。

そんなわけで、無能なぼくは今日もせっせと働くことにしよう。

ではでは。

ゑんどう

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!