とーしつシリーズ2【精神病に甘えて逃げて優しくしてほしいから死にたいなんて言ったりする友達と私】

どうもどうも、黒珈琲です。
同じマガジンで以前の記事に「精神病になるとは誰も思わない」ということを書きました。
なので今回は病気に甘え切った過去とそうなる心理について書いていこうと思います。

私は精神病になったことにより、それはそれは怠惰でぐうたらな生活を送っていた。
正確には、昼間に起きてデイケアに通い、夕方に酒を飲み家に帰ってチャットする。タバコは吸いたいだけ吸って、食べ物は好きなだけ食べて、呑みたいだけ呑んで呑まれていた。

特になにをしていたのか思い出すと、人と喋る。という点だけに重きを置いた21〜23歳頃の2年間位だったと思う。

インターネットとデイケアの人間関係。
問題は、(ネットもそういうチャットルームへ行っていたため)ほぼ全員メンがヘラってるということだったかもしれない。

職業・遊び人。特技・泥酔。趣味・煙草。

他人からその当時どう見られていたかと思い起こすと、
「黒珈琲は脳が幸せそうだな。悩みがないだろう」
「クラスに一人はこういうやついるよなあ」
「シンプルにうざい」
「バカ」

らしかった(当時の付き合いがあった友人達による言葉である)。

明らかにバカ丸出しで、本人は大真面目に楽しく生きていたが、その頃のもっぱらの悩みが「友達の死にたい気持ちにどう応えればいいのかわからない」というものだった。

精神病というと、何か特別な力を得た気になりがちである。
だって、精神異常だ。精神というのは目に見えないし、心とかって言い換えられる。
なんかすごくね!? あたい、フツーの人間とは違うんだ! なーんて。

でもそれって、精神病になったばかりの人は特に皆そう思いがちである。もちろん一概には言えないが。

何故か?  過去の私含め彼らにとって、全くもって特別な病気として自分の病気を扱う以外に、自分を慰められないからじゃないだろうか。 

私の場合、病気以外に自分の「持ち物」が少なすぎたのもある。そう、自信ってやつだ。

病気を言い訳にすれば、ひきこもりだった過去も、学校でうまく友達が作れなかった原因も、数学がすごく出来ない謎の数字嫌いも、そういう「自信のない人生」全て「病気だからだよ!」でまとめてポイできるのだ。

実に、私だけかもしれないが(と前置きをして)、精神病疾患者というのはある意味、頭がいいのかもしれない。無意識にやっていることが全て自己防衛に繋がっているんだから。生きる術のひとつとして病気になっている可能性は...どうですか、あるのかな。

弱いから、守ろうとして、病気を受け入れる自分も持ち合わせていないので「病気を利用しよう」(優しくしてもらう理由だったり、好き勝手な気持ちの吐露をしたり、仕事をしなかったり、家事や生活を疎かにしたり)という心理が働くのであーる。少なくとも私の場合はそうである。

で、まあ死にたいっとか今から死ぬっとかリスカした見て!とか、いろんな方法で(結構ワンパタ?)他人に優しくしてもらおうとする。
(私は自傷行為は言葉以外はしていないので大抵は優しくするべき、側の立ち位置だった)

ちょっと話は戻るが、私の最大の当時の悩みは「友達の死にたい気持ちにどう応えればいいのかわからない」というものだ。

何度も、言っていた言葉があった。
私は彼らが好きだったし、死んで欲しくなかったし、すごくつらかった。死にたいんだという彼らに、なにをしたらいいのか、なにをすれば言えば、死にたくなくなってくれるのか。

気持ちはぐるぐるして、その度々に私は「悲しいから死なないでくれ」とか「私は君が好きだ」とかいうことを確か言っていた気がする。

それでも、たいして効力はないようで、誰もが暗い顔のまま、ある日ケロっといつも通りに笑っていたり、それでまた死にたいと呟いたりしていた。

「死にたい人に死ぬなって言うのは、生きることを強要されているようで、逆にもっとつらくなる」
なんて、言われたこともある。

私自身、ずっと死にたくて、でも死ぬより生きるほうをとって、なんとか誤魔化していた時期もあった。生きる、とか死ぬ、とか口に出すことは、ほぼなかった、なぜなら周りに引き止められたり、優しくされる事すら鬱陶しかったからである。

私ほど皆、ドライではないし、誰かに愛される希望を持っていたのかもしれない。

もちろん、本気で悩み苦しみ死んだ人もいるだろう。私の周りにはまだいないが、死にたいと常に言っていてケロっとしているからって突然自殺しないとは限らないのである...。

だから言い切れることでもないが、精神病に振り回され、甘えて逃げるために利用する人は、それだけ生きたい人なのかもしれない。

生きるとは何か、という問いに、サラッと答えをくれた知人がいる。
それは私がまだ少し若かった頃に恋をした相手でもある。だからだろうけれど、その言葉の効力は大きく響いて、今でも忘れられない。

当たり前すぎるんだが、「生きるって、ルーチンワークだよ」という話で。

朝起きて、掃除したり、食事したり、仕事行ったり学校行ったり、夜になったら寝て、明日の準備したり。

そういう「生活」をする。というのが生きる、ということだよ。

と。
なぜかそれで、私は腑におちたのだった。

精神病を受け入れるとか向き合うとかいう言葉を使う疾患者は一定数いる。
しかし、私はいまだにそれはよくわからない。

とりあえず病気に甘えず、利用することもなくするきっかけになったのは、医者による一言だった。

薬を飲みたくない、0にできないのか。と懇願した私に、主治医は言った。

「薬なんて、健常者だって飲んでるよ。べつに、誰だってある程度は飲んでる。普通のことだよ」。

その一言によって、ああ、そうか。と世界は変わって見えたものだ。

精神病は決して特別なんかじゃない。私がたまたま偶然かかった病気が、精神病っていうやつだっただけだ。

今でこそ、自分のことを嫌いではない、と言い切れる私だが、ここにくるまでの間、本当に試行錯誤で、模索して、考えて、でも絶対にそれは一人じゃできないことだった。

持論のひとつに「人は変えられない」というのがあるんだが、「人は人によって変わる」のも確かなのだ。

価値観や性格、メンがヘラヘラな奴らが言う「嫌いな自分」も、ぜーんぶ水の流れのようなもので。流動的なもので。それを追いかけ続けるには、人生はそれなりに短く、長いと思う。

だったら自分ともうひとつ、自分以外のひとを見る、知る、そういうような生活をするのは、多分精神病の治療にとても良い影響を与えるだろうと、思うのだ。

長々と今回は真面目すぎて申し訳ない!!
読んでくださった方、本当にどうやら重症なんですね(笑)みなさまお大事にどうぞ人生を楽しんで!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?