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ジャーナリズムに希望はあるか

あふれる書籍や映像作品の中から、学びや気づきがほしい。そんな方のため、元県紙記者の木暮ライが、おすすめのコンテンツをプロット形式で紹介しています。

■ニュースは消費ではなく文化そのもの/「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」
2021年11月1日に出版されたノンフィクション作品です。筑紫哲也NEWS23の編集長を務めた金平茂紀氏による2015年夏まで掲載された講談社のPR雑誌『本』を約6年後に追記し、書籍化したものでした。

《筑紫哲也NEWS23とは》
筑紫哲也NEWS23(以降23)は個人名を冠した初めてのニュース番組であり、キャスターが「編集権」を持つ希少な番組だった。上層部からニュースとして扱うのを見送れという指示があっても、猛然と反発するなど、日本の報道番組に新しい時代を切り開いた。筑紫氏がなくなって13年―。「その時代」に存在したジャーナリズムは現在、失われつつある。約10年間、23の編集長を務めた金平茂紀氏が、関係者への膨大なインタビューをもとに当時を振り返る。

■起 二度目のプロポーズ

ジャーナリストには2つのタイプがいる。時代と「添い寝」する型と、そうではない反俗的な姿勢を貫くタイプ。筑紫氏は「添い寝」型だった。バブル崩壊後の荒涼としたなかで「筑紫哲也NEWS23」は誕生した。筑紫氏は朝日新聞社の記者だった。地方紙局勤務から始まり、政治部、外報部、ワシントン特派員、『朝日ジャーナル』編集長などを歩んだ。新聞記者たちのなかにはテレビ局の仕事に関わると「手が腐る」などと公言する人がいた時代。1989年初夏、朝日新聞ニューヨーク駐在編集委員としてマンハッタンで暮らしていた筑紫氏のもとに、TBSの2人の男が訪ねてきた。ワシントン特派員だった頃からの旧知で、麻雀仲間だった久木保報道局長(当時)と諌山(いさやま)修プロデューサー(当時)だ。

この年の秋から月―金の帯で、1時間半のニュース・スポーツ・情報番組を始めたい。時間は夜11時から。そのメインキャスターを引き受けてほしい。

筑紫氏は「テレビは新聞と違うメディアであり、いずれテレビの影響力が新聞を上回る時代が来る」と快く引き受けた。実は、以前にもキャスター就任の話は出たが、1987年8月に一度破談していた。朝日新聞のトップの一柳東一郎(ひとつやなぎ・とういちろう)社長がTBSの諏訪博会長を訪ね、正式に断ったのだ。おまけに、朝日新聞の首脳の一人が「もし朝日を退社してTBSに行くのならば、この世界で二度と飯が食えないようにしてやる」と伝えてきたらしい。

放送開始まであと二カ月、メインキャスターは突如、白紙となった。その後、森本毅郎氏を起用し、久米宏氏の「ニュースステーション」の裏番組としてスタートしたが、わずか1年で終了した。時間帯を午後11時に移動して、再び筑紫氏に白羽の矢が立った。のちに筑紫氏は「二度目のプロポーズだからなあ。受けざるを得なかったんだよ」と語っている。

■承 「報道」と「経営」のあいだ

「君臨すれども統治せず」は筑紫氏の記者人生で生まれたモットーだ。強いリーダーからのトップダウンで全体が動いていく方式ではなく、現場に近い下からのボトムアップで動くスタイルである。筑紫氏の朝日新聞政治部記者時代には「官邸・政党にあらずんば政治記者に非ず」。つまり、首相官邸か政党をカバーしていないような奴は政治記者としては到底認められないという気風が強い。政治部では三浦甲子二(きねじ)氏がボスとして君臨していたという。筑紫氏はその「三浦タコ部屋」の中で三浦氏にすり寄るようなタイプではなかった。『朝日ジャーナル』編集長時代も、多くの編集業務を下に任せて本人は行方不明ということが日常茶飯事だった。
23が始まって2年後、一回目の「最大の危機」迎える。バブル経済が崩壊した直後の1991年7月に、大手証券会社の損失補填事件が明るみになった。その損失補填先のリストにTBSも含まれていたのだ。それを知った筑紫氏は、その日の午前に出社して信頼できる志甫溥(しほひろし)常務(当時)に相談。会社の見解を志甫常務がカメラの前でコメントを読み上げ、それを29日に放送した。筑紫氏は番組で「報道機関というのは視聴者の信頼をなくしては成り立たない企業です。その究明にこれまで以上の力を尽くさずを得ない。それがせめてもの償いではないかと、私は思います」と語った。
通産省資源エネルギー庁(当時)が「プロ二ウム利用は安全で必要」とPRするための広告を依頼し、読売、産経、毎日が「記事」の形で受け入れて紙面1ページの相当部分を使って掲載した。掲載された「広告」は座談会やインタビュー記事の体裁をとっていたが、広告主としての資源エネルギー庁の名前はどこにも明示されていない。当時は日本の動燃(現・日本原子力研究開発機構)がフランスからプロトニウムを船で搬送する計画を実行していた背景があり、国際的な反対の声を押さえる意図がうかがえる。問題なのは、日本新聞協会の基準で「編集記事に紛らわしい体裁・表現で広告であることが不明確のものや、責任の所在のはっきりしない広告は掲載しない」と規定があるにもかかわらず、新聞3社が広告費計5500万円を受け取っていたのだ。
明かな新聞報道の倫理綱領違反。
この事態に筑紫氏は反応した。しかし、久木保報道部長(当時)からストップがかかる。毎日側から懇願されたというのだ。筑紫氏は反発し、ヘッドラインニュースコーナーと筑紫氏コラムの「多事総論」でニュースを扱った。問題の所在に対して真剣に向き合った時代がそこにあった。

■転 僕はもうテレビを辞めようと思っている

1995年9月11日午後10時過ぎ、筑紫氏は激怒した。「おい、こんな大事なニュース、どうして僕らはやってないんだ?」。そのニュースとは、4日に発生した米兵による沖縄の少女暴行事件のことだ。キャスターたちが原稿をチェックと特集のプレビューを行っている最中、久米宏のニュースステーション(以降NS)で報じられたのだ。これほど凄惨な事件であったにも関わらず、沖縄県警の発表が軽微な事件の扱いと同様に広報ボードに張り出されただけだった。おまけに琉球新報は7日付夕刊2段、沖縄タイムスは8日朝刊社会面アタマ記事。読売、朝日は9日朝刊の小さな扱いだった。テレビで報じたのは11日の午後である。NSは8日時点で全国ネットで報じていた。テレビ朝日は開局前の琉球朝日放送に那覇臨時支局を置いて、ネタ申告を東京のデスク宛てに送っていた。その中に、事件の小さな記事が添付されていたのだ。この第一報の遅さは、沖縄のような狭い地域社会で小さなことから身元が分かってしまい、心ない反応が返ってくる恐れがあるためだ。

《木暮の焦点》
木暮も記者時代、被害者の身元に配慮し、加害者との関係性を細かく報じなかった。当時の社会部デスクには咎められたが後悔はしていない。しかし、他社は掲載した。当時の副署長は各紙の切り込みを私に見せるほど、激怒していた。

1995年は激動の年だった。1月17日の阪神淡路大震災が発生。現地入りして3日目の深夜、23の放送後、筑紫氏は毎日放送本社で激怒した。被災者の声を集めたVTRが東京で編集され、中身を見たためである。それ以外にも、神戸組と東京組の隔たり、TBSとMBSとのぶつかり合いが幾度も起きた。筑紫氏は「僕はもうテレビをやめようと思っている」と話すなど、日本を代表するニュースキャスターとして自信を失いかけていた。
3月20日には東京都心で地下鉄サリンが起きて以降、オウム真理教への強制捜査、麻原彰晃の逮捕、教団の壊滅作戦などの報道に時間が割かれ、関西から批判の声が上がったという。ここで二度目の「最大の危機」を迎えた。10月19日、日本テレビ昼ニュースの第一報だった。TBS「3時にあいましょう」の番組担当者が、放映前の坂本堤弁護士へのインタビューVTRテープを見せていたとスクープした。このVTRを見せたことがきっかけで坂本一家は殺害されたとみられる。当日夕方のTBS『ニュースの森』では、杉尾秀哉キャスター(当時)「事実無根」と否定したが、否定の根拠はなかった。その後、「調査委員会」が設置され、内部調査を行ったが「VTRを見せたことにつながる記憶や事実関係はどうしても出てこなかった」と公表。
しかし、1996年3月25日、その後の調査で覆ることに。TBSは捜査当局に押収されていたオウム真理教の「早川メモ」を入手。「見せていた」と見解を変えた。

筑紫氏はその日の多事総論で「過ちに対して、処理の仕方がほとんど死活問題に関わると申し上げてきましたが、その点でもTBSは過ちを犯した。今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました。しかし、いったん死んだに等しい局で信頼回復のために努力しようとしている人たちもいる。これを機会にしてきちんとすることがせめてもの坂本ご一家に対する償い」と述べた。

本書より一部抜粋

■結 松明は受け継がれたか

筑紫氏は、地方、地域こそ放送の未来があると信じていた。「改革は周辺から起きるんだよ」をモットーに放送がない週末には東京を離れていた。生前、「僕は定住型の農耕民族じゃなくて、移動型の狩猟民族だな」と話していたという。JNN(TBS系列の放送局の全国ネットワーク)はNNN(日テレ系)やFNN(フジネットワーク)のような中央集権主義と違い、各局の自主独自性を重んじる水平型の分権的ネットワークだった。 個性的で才能あふれるディレクターや記者たちが点在していた。筑紫氏は、そうした記者と親交を結び仕事の成果を23で登場させていた。

《木暮の焦点》
その原動力はNSに沖縄の少女暴行事件を先行された苦い経験から来ているのだろうか。

筑紫氏の死後、2009年以降はマスメディアとインターネットメディアとの境界はなくなり、電話よりもチャットが当たり前の時代になっている。テレビが家になく、新聞を取らない世代が多数派(マス)になりつつあり、人々は自分にとって都合の良い気持ちのいいだけを求めるようになった。売り上げが減少したテレビ局がやり始めたのは、視聴者のなかから購買力のある視聴者「コア・ターゲット」を絞り込み、その層に受けるようなマーケティング的発想が主流になりつつある。はたして、ジャーナリズムは守られるのだろうか。
筑紫氏は生前、ニュースは広い意味では文化の一分野にすぎないと語っている。番組のことで内外から批判が起こるのは、常に音楽や映画などの文化をテーマにした部分。しかし、筑紫氏は確信的にやっていた。その出発点となったのが沖縄の人々の生き方や暮らし方にある。政治部時代の筑紫氏は、自身の新聞記者、ジャーナリストとしての適性を疑っていた。しかし、返還前の沖縄に朝日新聞の「特派員」として3年、那覇で暮らしたことで記者をやめる理由がなくなったという。沖縄民謡から沖縄ロック、焼き物、織物、絵画、琉舞、大衆芸能から沖縄料理の豊かな食文化に触れるうちに、記者クラブに集まるのではない新聞記者の姿、ジャーナリズムの原点を見つけていたのだ。それは消費対象としての商品としての文化ではなく、生活そのものの一部としての文化と気づいたためだ。

《木暮の焦点》
つまり、ニュースも消費対象ではなく、文化そのものなのだ。筑紫氏はその文化が脅かされた沖縄の少女暴行事件、ふたたび記者としての自信を取り戻してくれた沖縄を見過ごすわけにはいかなかったのだろう。

(了)

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