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"切ない"を遠巻きに眺める。

「紅葉」

人は忘れる。
ひょんなこと、ときに忘れてはいけないことも。

人は忘れたい。
忘れたいことを。

人は忘れない。
ひょんなことを、そして忘れたいことを。

切ないという感情は嫌いではない。
なるべくなら味わいたくないが、決して悪者ではない。
少なくとも、作家にとっては大事な"ネタ"だ。

何者も、ある点ではなされるがままで
もがいても敵わない相手や、あがいても叶わない夢はある。
どうにもならないこと、どうにもならない変化に打ちひしがれることもある。

あの子はどうしてるだろうかと、ふと思うとき
同時にその子が、こちらのことを気にかけているような気になり、そんな自分を嘲笑する。

僕は、あの頃がよかった。
と思ったことがない。
今思えばあの頃もよかったなぁ、とは思っても、今より過去の方がいい、とは思えない。
先のことはわからないから、今が一番いいときなのかもしれないけれど。

これまでしてきた切ない想いが、蓄積されたとは思えない。それでも切ないという感情とは割と近い距離で並走していたことは確かで、未だに親近者の匂いを感じる。

今はそれらを
遠巻きに眺めているような感覚だ。
しかしいつ渦中に飛び込むかもわからない。

"今"は須臾の間に思い出に成り代わる。
この今が、色鮮やかであればあるほど鮮明に。
そして切ない想いであるほどに、それはなんとも言えず忘れがたい映像として遺る。

しかし、美しい旋律が生まれるなら、
叙情詩が生まれるなら僕はそれを受け入れよう。

切なさは悲哀だ。
切なくなければ、作品など作らない。
切なさがなければ、人は音楽を聴かない。
切なさがなければ、人は歌わない。
花を添えたりしない。
川を、頬つたう涙に喩えたりしない。
あの人と笑い合ったあの頃を思い出して、
涙混じりに微笑んだりしない。
ブルースもなければ演歌もない。
人間は、切ない。これは悪くも暗くもない。

刹那い。

今、思い出に笑ったり、泣いたりするのは
今を生きていないことではない。
今、この瞬間、在るはずのない過去を、頭の中にだけ広がる記憶という情景を、眺めているのだ。

自分の記憶の"切ない"を
遠巻きに眺めるのは悪くない。

たとえばどこかで
こんな歌が流れれば
それは誰かの想い出であり、誰かの"切ない"なのだ。


君と見た京都の紅葉は
それは嘘のような紅でした
想い出には君がいる幸せ
ここには君がいなくて淋しげ


"おしまい"


1stフルアルバム「Sain'o O」から「紅葉」について書きました。
記事を気に入ってくださった方はぜひ楽曲もご試聴ください。
https://music.youtube.com/watch?v=DllrFmaYkAw&feature=share

https://soundcloud.com/roku-records-japan/g1ltb3rbd9pw


CD販売も承っております。
https://rokurecords.theshop.jp/items/27619360

ありがとうございます。アルバム次回作の制作予算に充てさせていただきます!