Middle-Man不要論とクリエイターのこれから
私は特殊な経歴を持った映像ディレクター/シネマトグラファーだと思う。こんな感じで生きてきた。
基本的に周りを見ても同じようなキャリアパスの人はいない。というか、サバイバルしてきた結果、このような有様なのである。本意ではない。
それぞれ適当にしてきたかというとかなり本気でやってきた。自分のキャリアの転換点は外部要因(社会の変化、大人の事情)が8割方である。
最近では、先輩方に誘われて日本映画撮影監督協会(JSC)に所属することになった。
そんな私が常に接してきた存在がある。いわゆる「間に入る人」だ。英語でいうとかっこいい。Middle-Manと呼ばれる存在である。
「Middle-Man」っているor いらない?
人間の悩みの大半は、「人間関係」に集約されるとアドラーは言った。クリエイティブ業界にいる人なら、この事実は痛いほど感じ取れると思う。
私たちが【手】を動かしつくるとき、同時に【口】でクライアントに意図を伝達しなければならない。
本来であれば、脳内リソースの大半を【手】を動かすことに使いたい私たちは、【口】で確認すべきこと&懸念事項を「間に入ってくれる人=Middle-Man」に委ねる。
しかし、このMiddle-Manは大抵の場合、機能しないばかりでなく単なる時間の無駄につながることが多いのである。
おそらく上記のようなことが日常的に同時多発的に起こっているのではないか?特にコロナ以降のリモートワーク主体になった瞬間、相手方の仕事の品質劣化が激しい。
おおまかに上記の公式で回っているクリエイティブ業界だが、果たしてこんなMiddle-Manだらけの業界で未来はあるのだろうか?
少し話は変わるが、twitterでこんなトピックがバズった。
かなり実感に近い。日本の産業の中でもてはやされているのは、つまるところ中抜き≒Middle-Man的な業界なのである。暗い未来しか想像できない。
Middle-Man不要論
急に話題が幸福論みたいになるが、結局クリエイターが幸せに生きていくには次の条件を満たさなければならないと思っている。
ここに、不要なMiddle-Manが複数レイヤーにわたり存在することで、この業界は、不幸を産む装置になってしまう。
リモートでつながる現代、仕事をしないMiddle-Manはもういらない=Middle-Man不要論を提唱したい。
ではどうすべきか?答えは一つである、クリエイター自身がクライアントと直接コミュニケーションを取り、舵を取る役割を担うこと。
仕事の肩書的には、全クリエイターがクリエイティブ・ディレクター/アートディレクター/プロデューサー的な振る舞いをすることである。
日本のMiddle-Manは、つまるところマージンをいかに抜くか?という思想のもと仕事をしている。
これでは本質的ではない。すべて、自分の利益の最大化のために動いている。
長期的に見れば、クリエイティブの品質は落ち、売上も落ち、Middle-Man自身の存在を脅かす構造になっている。
クリエイター自身が自分の能力をしっかりと理解した上で、クライアントに世界観の提示→クリエイティブの実行まで見届けていく。
旧来のメディアからスマートフォン中心の生活になった今、広告の制作→配信、効果測定までツールでわかる。実は、怠慢だったのはクリエイター自身だったということに気づく。
もし、現在のMiddle-Manの役割以上に、クライアントの意図を理解し実行することができればどうなるか?
相手と目線を合わせ伴走する。変化に合わせて、応えていく。
良いMiddle-Manとの出会いが一番だけれど、その人はほんの一握りだったりする。自力で少しでも克服できるに越したことはない。
クリエイターのこれから
これからのクリエイターは、もっと広い視野でクライアントと関わっていかなければいけないと思う。
自分のスキルを伸ばすことは大前提として、ビジネスや経営、マーケティングの知識、他の分野の情報を取り入れていく。
クライアントと目線を合わせるには、お互いの言葉づかいを同じにしなければいけない。
とても面倒くさいように思えるが、長期的にクリエイターが幸福になるにはやるべきことなのではないか、と思う。
私はもっと「手ざわりのあるものを作りたい」と思い映像を独学で始めた。自分がMiddle-Manだったことに気づいた過去がある。
大きな予算、大きなクライアント、大きな広告賞に憧れていた。今はなんと愚かだったかと思う。ただ無茶な工数を実現する腕力と、ストレスを克服する心臓が手に入っただけである。
自分が【手】を動かすことができるようになった今、この証明を自分の力でしていきたいと思う。
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