見出し画像

『あかり。』 #28 チベットへ行く前に朝粥を・相米慎二監督の思い出譚

宴会の翌朝、相米監督に連れられて北京の街角にある朝粥の店に行った。
そこにいたのは、日本からわざわざやってきた女性プロデューサーと中国人の女性脚本家であった。
もう、かなり進んでいる話なんだ…。
映画のことを何もわからない僕は、目の前にいる二人に緊張して挨拶した。

『青い凧』という中国映画をご存知だろうか。
田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督の1993年の映画だ。評判の映画で、評価も高かったが、中国国内での上映を禁止され、以降10年、田監督は映画制作を禁止されたという問題作である。

その映画の脚本を書いた人が、今、目の前で中華粥を啜っている。

監督は日本語で、それをプロデューサーが英語で通訳し、脚本家は中国語で応え、またそれを日本語で僕らに伝える…なんだか意思疎通の厄介なテーブルになった。

彼女は、粥にピータンを入れていた。
本場の中華粥は量もたっぷりとあり美味しかった。ほんのりと塩味がついている。好きな種類の具材を入れた粥に大きな揚げパンささっていて、それを齧りながら熱々の粥を啜る。監督と僕は帆立を選んだ。シャンツァイのトッピングもいい具合だ。
店内には、朝食を求める人々が溢れ、ものすごく活気がある。飛び交う中国語がやかましいくらいだ。誰もがエネルギーに満ちている。

監督は粥を啜りながら「まあ、好きなように書いてみたら」とか「で、原作は面白かったのか?」とか「チベットを見てくるから、また話そう」とか、具体的なことは言わずに相手の出方を伺っている。
「原作小説は面白かった」と彼女は言った。(いったい、あの分厚い本を誰が翻訳してくれたのだろう?)

なぜか、JALで空輸した野菜を氷詰めにして持ってきているプロデューサー女史は、盛んに僕に胡瓜を勧めた。
「中国に来たら生野菜は食べちゃダメだから、食べなさい」
「そうなんですか?」
「当たり前でしょ」
胡瓜を丸齧りしながら、彼女は言った。
周囲の中国人が、なんだこいつらは…という目つきで僕らを見ていた。
僕もせっかくなので胡瓜を齧ったが、粥と相性がいいとは思えなかった。
しかし、わざわざ空輸したとなれば、ありがたく頂くのが筋である。
中国の醤油に少し浸けて齧ると、今度はまあまあいけるのだった。

話題が天安門事件をどう描くか…という微妙な話になると、脚本家は曖昧な返事になった。店内で話せる単語ではないのかもしれない。しかも日本人と。
監督もそこは察して「まあ、一度書いてみてだな」と、曖昧にしていた。

彼女が脚本を書いた『青い凧』は、1950年代から60年代を舞台にした政治的な色合いが濃い映画である。興味を持たれた人は、ぜひ検索していただきたい。

原作『逃 TAO』の監督の初期の映画的構想は、この人のキャスティングだったのだろう。

何で彼女に頼んだのですか?

とは、僕は結局一度も聞かなかった。

そう、彼女の顔は化粧っ気がなく、真面目そうで、知的で、昔の左寄りの文化人的な雰囲気があった。
しかし、粥を啜り、ピータンを噛み、揚げパンを齧っている、その食べ方は、映画の中で見かける中国人そのものだった。

我々は、食事を終えると店先で別れた。

監督と宿に戻ると、煙草の話になった。
日本から持ってきたピースやハイライトには限りがある。
中国ではどうするかも、問題であった。
いくつか適当に買ってきた煙草を吸い比べしてみることになった。
「こっちにいる間は、こっちのにしようじゃないか」と監督は言った。
ところが、どの煙草も質があまりよくなく美味しく感じられない。
JTのように洗練はされていないし、両切りが多かった。

買ってきた中では紫の文字が印字してある白いパッケージのものが比較的まともだった。
「これにするか」と紫煙越しに監督が言った。
とりあえず、これを大量に仕入れることにした。北京でこれなら、チベットでまともな煙草が手に入るとは思えなかった。

長く滞在するには、こんな小さなことも準備の対象になるな…と僕はぼんやり考えていた。

それにしても、あの人はどんな脚本を書いてくるのだろう。
中国語で書かれたものを日本語に翻訳して、それから…えーと…。そんなことを考えていると、これは大変なことになりそうだと今さらながらヒシヒシと感じられた。

なにしろ、僕は何も聞かされていないのだ。ただ、一緒にチベットに行かないかと誘われ、のこのこついてきたにしか過ぎない。監督も何も言わない。

窓の外には北京の街並みが見えた。
監督はソファに寝転んで煙草を吹かしていた。

一方で、これから旅が本当に始まるんだ、そう思うと胸が踊った。
僕は本当に(映画界の)世間知らずだったのだ。

監督はチベットで何を見ようとしているのだろう。
情けないことに、僕の頼りは<地球の歩き方>だけである。
せめて、地図くらいは頭に入れておかないと……僕はこれから向かうラサの街について、もう一度おさらいした。

ラサが位置するのは、高度4200メートル。富士山より高い高地にある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?