見出し画像

さよなら人類。さよなら国民国家

国民からなる国家同士が国民を無視して争い続ける。
この世界のあり方に疑問をもたざるをえない時代に、重要なヒントを与えてくれる発見がありました。

伊藤雄馬という 1986年生まれの言語学者がいます。
彼は最後の狩猟民と言われるムラブリ族の研究をしながら『森のムラブリ』というドキュメンタリー映画の制作にも携わりました。

メディアが取り上げそうな話題はさておき、伊藤さんの研究成果から本質的なエッセンスを抽出して、今こそ私たちが知るべきことをお伝えしたいと思いました。

所有の概念がない

ムラブリ族は、タイ・ラオス国境の山岳地で、遊動生活と呼ばれる非定住型の生活を営んでいます。
彼らは、狩猟(淡水魚、小動物)と採集(芋、山菜)で生きています。

彼らには、物や土地を “所有する” という考え方が基本的にないそうです。
と言っても、他人のものを盗んだり奪ったりしていい、というわけではありません。
例えば、採集した食料を食べて余った分を道端に置いておきます。すると、誰かがそこへやってきてそれを持ち去ります。
はたまた、人のいない家があると、誰かが入ってきて勝手に寝泊りします。

誰も食べないから、いただく。誰も使っていないから、使わせてもらう。
そんな感覚らしいです。
彼らには所有とか専有という概念がないのです。
ちなみに、専有の対義語は共有です。

時制の概念がない

ムラブリ族の会話は、ほぼ現在進行形のみで話されるそうです。
ムラブリ語の文法には、現在進行形の他にもう一つのかたちがあり、それは過去か未来を表します。過去形と未来形が同じかたちだということです。

これはどういうことか。
目の前で起きていること(現在進行)と、そうでないこと(過去・未来)を区別し、目の前で起きていないことは過去か未来かを区別しないのです。
そして、過去・未来の話は会話にほとんど出てこないのです。

領土の概念がない

ムラブリ族は、語彙のみ異なる方言によって 3つの部族に分かれています。
1 部族の人数は 150~200人と言われています。
定住しない遊動生活なので、彼らには領土=テリトリーという概念はありません。
しかし、互いに遊動しているうちに、たまたま他の部族と接触しそうになることはあります。
そういうときの彼らの戦略は、“逃げる”。
狩猟採集エリアが重ならないように、他の部族からなるべく離れようとするのです。

なぜ、部族間の争いが起こらないのか。
自然が豊かな土地柄、資源を奪い合う必要がないこと、人数が少ないために大きな戦いにならないことが挙げられます。
戦いを好まないからというよりは、他の部族に対する恐怖心があるからとも考えられています。 

他の部族と融和しない

ムラブリ族には、タイ側にいる部族と、ラオス側にいる部族がいます。
伊藤雄馬さんは、両部族の代表者を引き合わせ、自ら通訳することによって意思疎通を試みました。
相互の恐怖心によって距離をとっている両部族ですが、会合は意外と友好的なムードで行われました。

会合を終えて、伊藤さんはタイ側の代表者とともに、タイ側部族が住んでいる場所に戻ってきました。
部族の人々が、ラオス側部族の特徴を聞くために代表者のところに集まってきます。
代表者は、ラオス側部族の言葉が異なることを大げさに盛って話しました。

「ラオス側の連中は私たちとは別のグループだ」と強調することによって、自グループの結束を固めている、と伊藤さんは洞察しています。

自部族と他部族を分断するために、言葉の違いを “利用” しているわけです。

自部族の結束を形成するのは 物語 (narrative) です。
伊藤さんは、タイ側部族の人々から様々な話を聞いたうえで、
「人を殺さない。物を盗まない。嘘をつかない」
という規範がこの部族の物語である、と理解しました。
つまり、他の部族はそういうことをする。私たちの部族はしない。だから、他の部族とは行動を共にしない。という物語を部族の全員が共有している。
これは神話や伝承と同じ類いのもので、共同幻想というフィクションによって国民国家が形成されていったのと相似形のものです。

部族固有の物語をつくり、他部族と異なる言葉を話す。そうまでして他部族との分化を図るのはなぜでしょうか。
1 部族の人数がダンバー数であることにお気づきでしたか。
ダンバー数とは、人間が安定的な社会関係を維持できる人数の上限です。 

定住した部族で自殺者が出たことの意味

ムラブリ族の中でもタイ側の部族は、タイ政府の政策により現在は定住生活を送っています。
政府の開発援助によって、農業や畜産を営むようになったのです。

遊動型の狩猟採集民だったムラブリ族が定住型の農耕民になってから、部族の中で自殺する者が出てきました。
自殺した人たちについて、ムラブリ族の人が語った話を以下に要約します。

農業を営むようになって、計画が必要になった。
計画するために、ずっと先のことを考えるようになった。
先のことを見通すために、過去のことも考えるようになった。
さらに、見えない場所で起こっていることも考えるようになった。
彼らは、「今」と「ここ」を超えて考えてしまったのだ。
そして、いろんなことが不安になって死にたくなった。

人類の平和をムラブリ族から学ぶ

人類の不幸の起源が定住化にあることは、間違いなさそうですね。
定住したことによって、所有や領土の概念が生まれたり、過去や未来のことを考えて死にたくなったりするわけですから。

かといって、現代人に今さら「定住をやめてノマド化せよ」と言うのは無茶ですよね。
ムラブリというより・・・

ムチャブリか!

って話ですよ。

なので、定住は受け入れましょう。
ムラブリ族に部族間の争いが起こらない理由の一つは、1 部族が小さいからでした。
国家間の争いが絶えないのは、国民国家が大きくなりすぎたことが一因ではないでしょうか。
例えば今、世界の覇権にこだわる大国が約 2名いるわけですが、その 2国が州単位や省単位に分割されれば、少なくとも覇権争いは起こりませんよね。

もうひとつ、ムラブリ族が教えてくれるのは、他の部族と融和したりせず、分断された状態を保つほうが争いを避けられるということ。
お互いの違いを認めて仲良くするよりも、違いを認めて関わらない態度こそ賢明なんじゃないか、と思いました。

現在、国家のプロパガンダに騙されている人々も、国家を形成した共同幻想=物語が虚構でしかなかったことに気づくときがくるでしょう。
そのとき、国民国家は解体に向かうのかもしれません。
そもそも国民国家とは、他国と戦争をするためにつくられた人工物ですから、戦争をしない時代になったとき国民国家は不要となるはずです。
それでも国民国家が解体せずに存続するのならば、異なる国家同士が互いに干渉するのをやめ、極力関わらないようにしてほしい。
イデオロギーも、国家のメンツも、私の人生には全く関わりのないことです。

後世の歴史家は書く。

19世紀から 20世紀にかけて、人類は国民国家という幻想に囚われた。
21世紀に入ると、人類は世界が一つになるという幻想を抱いた。
しかし、疫病 (AD 2019) と戦争 (AD 2022) を経て、人類は再び小さな集団を志向し始めた。
誰もが自由に生きる現代からは想像しにくいが、国家や世界といった虚構が個々の人間を犠牲にする時代が、かつてあった。

『巨大国家とグローバリズムの世紀』(AD 2130)

この記事が参加している募集

映画感想文