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残生を逆算して、今を決めてみる

前回の記事で、自己と対話するプロセスに触れました。
それは単に次の仕事を決めるためだけでなく、残された時間をどう生きるかという問いに答えることでした。
今回、その思考の全容をできるだけ平易な言葉で説明することにします。

納得して死ぬため、私らしく生きる


始めに設定した問い:「人生の最終的なゴールってなんだろう」

私は漠然と、死ぬときにいろいろ納得していることかな、と考えました。
あまり深く考えずにそう思ったので、間違っているかもしれません。思考の途中で間違いだと気づいたら、また始めから考え直せばいいので、とりあえずここからスタートしてみることにしました。
 
次の問い:「死ぬときに納得しているためにはどうしたらいいか」
これが難しかった。
これだ!っていう言葉が出てこないんです。
そこで、「これじゃない」を挙げてみることにしました。消去法ですね。
 
長生きする・・・違うよね。肝心なのは長さじゃない。
何かを得る。財産、能力、名声、大切な人、記憶・・・いや違うな。
生きた証を残す。仕事、作品、子孫、人々の記憶に残る・・・これも違う。
 
ここで、大切なのは結果より道のりなんじゃないか、と思いました。
journeyの醍醐味は、目的地に着くことよりも、道程そのものにある。
 
やりたいことをやる・・・うーん、それも違う気がするな。やりたいこと?やればいいじゃんってだけの話で。それだけで納得できる気がしない。
だいたい、死ぬときに、自分はあれもしたこれもした、なぞ振り返ると思えない。
死ぬときの納得感とは、頭で考えるものではなく、感じるものではないか。
何をしたか、ではなく、どう生きたか。
 
結局、この問いへの答えは、「私らしく生きる」という、ありきたりの言葉に落ち着きました。途中で間違いだと気づいたら、以下同文。

分厚い Third Place をもつ


 次の問い:「私らしく生きるにはどうしたらいいか」
ほらね。やっぱり、あまりいい答えじゃなかったんでしょうね。次の問いがますます難しくなってますから。
 
そもそも、今までの私は、私らしく生きてきただろうか?
というところへ思考は行かざるをえません。
そのとき私は、重大なことに気づいてしまいました。
世の中には、仕事をメインに生きる人と、仕事以外のことをメインに生きる人がいるとして、前者は仕事の中に楽しみや生きがいを見出そうとし、後者は仕事以外にそれを見出そうとする。
私は、仕事をメインに生きてきながら、仕事の中にそれを見出してこなかった・・・
「もういい加減やめようぜ」と思ったのはこのときでした。
 
つまり、人生のメインテーマに位置づけた仕事が、生きる目的や楽しみの源泉になっていなかった、というけっこう初歩的なミスを犯していたんだな。
そこは間違いを認めて修正したほうがいいな、と思いました。
でも今さらどう修正したらいいんだろ。
50歳の私が仕事の中にそれを求めようとすると、ロクなことしないと思うんですよ。権力を悪用して会社を私物化したり、さらに上を目指して間違いを増幅させるか、ブルシットジョブを社会に必要な仕事と盲信するか。
どれも、悪あがきとしか思えません。
だったら、仕事をサブ扱いにするしかないですよね。
 
以前、3極構造(家族・仕事・それ以外)について書きました。

現在の私は、家族が最上位に位置していますが、それも 3極のうちの 1極に過ぎないので、それだけでは安定しません。
仕事も 3極の 1つなので、キープしたほうがいい。けど、最下位の位置づけでいい。
重要なのは「それ以外」だ、と思いました。
仕事は、契約で結ばれ、生産性や損得といった観念に縛られる。
家族は、血縁で結ばれ、扶養や法律といった観念に縛られる。
一方、それ以外は、それらの縛りなく、最も私らしく生きることができる “第3の居場所” だからです。

note を読む・note を書く


 次の問い:「分厚い Third Place をもつにはどうしたらいいか」
すでにそれをもっている人にとっては、簡単なことなのでしょうね。
しかし、私にとっては難問でした。
仕事をメインに生きてきたことのツケであり、根なし草のごとく諸国を転々とする生活の帰結であり、生来人間が社交的にできていないからでしょう。
 
2021年 4月に note を始めて 17ヵ月たちました。
私は、note を私の新しい Third Place に位置づけようと思います。
私の数多くの元・現同僚たち、数少ない友人たち、そして妻すらも知らない「世界の普通から」として、”本当の私” が棲む場所。
損得も利害もなく、束縛もしがらみもない、ただ他愛のない話をしたり思いを共有できる人たちとつながる場所。
それが私の新 Third Place です。
 
次の問い:「note で人とつながるにはどうしたらいいか」
これは簡単な問いです。note を読み、note を書けばいい。
note との関わり方は人それぞれですが、私の場合は様々な note 記事を読んで、自分が日々考えていることと照らし合わせて、そこから生まれる思いを自分の言葉で書くというものです。
商業メディア上で、記者・コンサル・職業ライター等が書いた記事が果てしなくつまらない、と痛切に感じる今日この頃。
商売や仕事のためでなく、一私人が私的に書いたものが最も面白いと思っています。

社会と関わり続ける・平場で人と付き合う


 「人生の最終的なゴールってなんだろう」という途方もない問いから始めた思索の旅も、かなり具体的なレベルにまで落ちてきましたね。
 
最後の問い①:「note を読むにはどうしたらいいか」
まず note にログインして、タイムラインからフォロー中ボタンをクリックし・・・とかそういう話ではなく。
note を読むモチベーションを持ち続けるためには何が必要かって話です。
ここはそう深く考えるまでもなく、社会との関わりを持ち続けることでしょう。山に籠って仙人のような暮らしをしていたら、note を読もうとはしないでしょうから。
社会、政治、ビジネス、芸能、テクノロジー、アート・・・まあなんでもいいんですが、人間の活動に関心を寄せることは必須なのだと思います。
 
最後の問い②:「note を書くにはどうしたらいいか」
前述したように、様々な note 記事を読むことは必要条件です。
しかしそれだけでは「書く」までなかなかいきません。
私が note の記事を書こうと思うときの着火剤ってなんだろ?と考えると、それは日常の中でのちょっとしたハプニングなんですね。
例えば、何事にもクールだと思っていた人がイジメ問題についてアツく語るのを聞いて、えっ?と驚くような瞬間。
そうしたハプニングはどういう環境で発生しやすいでしょうか。
それは、人と関わる機会が適度にあることだと思うんです。
毎日顔を合わせているのでもなく、週に 2回くらいでいい。
そして、上下関係などがなく、なるべく対等な関係にある人がいい。
 
世の中には上下関係を好む人がいます。
上司部下や先輩後輩といった序列の中から緊張感やドラマが生まれることもあります。
でもそれは、本来あるべき人対人の付き合い方を歪めるものだ、という考えに至りました。
だから私は、上下関係のないロールを次の仕事に選びました。
Director だの VP だのではない、”ただの人間” どうしとして、平場で対等に人と付き合っていくため。
そして、人としての純粋な付き合いから生まれる日常のハプニングを丁寧に掬いとり、note を書き続けるため。
 
「今」の針路が決まりました。
以上で 50歳の告白を終えます。
ご清聴ありがとうございました。

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