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どんな些細な事も考え過ぎて疲れる小さな小さな店のバーテンの話

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どんな些細な事も考え過ぎて疲れる小さな小さな店のバーテンの話

最近の記事

正論に対する根拠

人がそう言うから。 一元論の蔓延にはあらかた根拠など無い。 正論は正論、しかしながらその正論に反する事象が起こる理由とは何かという洞察がまるで無い。 起こる事に対しての感想が正論として蔓延り、なぜその逆流が起きたのかという考察はもはや存在しない。 スマートな人間はそこで黙り込む。何故ならその一元論に対する反論など意味を成さない事を知っているからだ。 議論には教養と知識が不可欠だ。知識武装という言葉がそうであるように、攻撃にも防衛にも知識が必要。ただその知識は解釈に大きく影響

    • 配慮論

      サイゼリヤが流行っているから行ってみたらビーガンメニューが無かった。ビーガンの私への配慮が無いと。 世の中は配慮で成り立っている。 腹が減れば配慮が飯を配達してくれ、金がなければお代は結構ですという配慮。暑ければ自然の配慮によりその風が吹き、寒ければ配慮により街中で火を焚きまくる。もはや配慮無しでは生きては行けない。 配慮が必要となり、配慮がAmazonで買えるようになる。配慮マーケットに持ち込めば、それ相応のリクエスト配慮が成される。ビーガンレストランを建てるなら300

      • 再生

        冬山 武尊山

        山は若いうちでは面白くない。 基本ずっと苦しい。果てしなく苦しい。下りも苦しい。膝が壊れる。 歳をとるとは経験。色々な苦行が思い出される。 果てしなく遠い頂を稜線から見ると、到底到達しないと思う。ただ、経験が有ればわかる。自分の視野に入ったものには必ず到達する。厳密には見える以上到達する方法を考える事ができる。どんなに遠くとも、視野に入った時点で正に読んで字の如く、ゴールが見えるのだ。人は想像以上に視力を持つ。普段見えないのは、余計な装飾や邪魔や雑音が多過ぎるから。簡単に言うと、到達出来る場所というものは必ず見える。些細なトラブルでも、出口の無いような問題でも。視力を奪っているものは全てが雑音。そこに集中すれば必ず道は開けている。 目の前の壁の様な到底踏破できないと思うものでも、その先を見据えながら、足先の一歩づつに集中する。気が付けば不可能と思える壁を乗り越えている。そして折角踏破したその標高を下る。先は遠い高い頂でも、そこに到達する為に下る。 このパラドックスはまじめに生活していれば五万と当てはまる。ただ、人は勿体無いという雑音に左右され過ぎ、足を止める。登る為に下る。 株価が途轍もなくこれに近い。上がり続ける事などあり得ない。中期のムービングアベレージから乖離する上がりは必ず叩かれる。ムービングアベレージは緩やかな上昇であるなら、そこに戻りまた上昇を始める。キレットの様な凹みに揉まれて揉まれて、そしてガツンと上昇する。 降って揉まれた上昇は強烈。なかなかへたらない。 登る為には時には下る。この考え方は極めて重要。 道具は高い。機能商品は、高い。兵器に近い。高い理由は機能商品だから。デザイン性では値は付かない。100g減らす為に諭吉が飛ぶ。ケチれば死ぬ可能性もある。だから金を掛ける。登山に見返りなんてない。そこにコストをかけるのは究極の大人の嗜みの他ならない。 じゃあ何故登るのか。 一番の景色とは、様々な景色の中での1番で無ければならない。どれだけの景色を見てきた?だから大人にしかわからない。それが経験。 冬、厳冬期なら尚更。全ては白くなる。雑音としての物など何もない風景。クソも味噌も全てを白く覆い隠すのが冬。 烈風と青い空と寒さと白い雪だけの世界。宇宙は何処から?成層圏を抜けてから?1番近いのは山。もはや宇宙。宇宙に近い場所で今までの苦悩を絞り出す。 だってそんな景色見たいじゃん。理由はそれだけ。 #登山 #冬山 #トレッキング #武尊山

        • 再生

          トウキョウナイトライド

          東京は狭くて広い。 色々な表情がある。ol’school とnew school の混在。狭いキャットウォークの50年来の住居の部屋にプレステ5が鎮座していたり、そのトイレはけつを自動でながしてくれる。便座は暖かい。300年前の建物の奥に500m以上の建物が顔を覗かせたり。 日本の食べ物は古来物も一つだが、それ本来だけが売りでは無い。ナポリタンやオムライス。いわゆる魔改造。欧米人はいつも口にする物を日本人というフィルターを通してどう斜め上のハイクオリティをメイクするかに興味を持ったりする。 よく言われる日本には四季があるからという言い回し。シベリアにもトンガにも四季は存在する。その最適化と適応化が日本らしいのだ。 シティーサイドとカントリーサイド。このコントラストなんか究極かもしれない。バランスの良い混在。要するにポジティブな曖昧さ。曖昧さはネガティブに転がると特に全てを傷つける。二者の妥協がマクロにそしてフラクタルに広がる。国が妥協の塊となるのだ。経済面では特に分かりやすい。たった5%の成長が20年続けば倍と化す。そこを怠れば相対的に半分の価値に落ちるのだ。 こんなにも曖昧で美しい顔を持つ東京。 今は岐路に立たされているからこそ、もう一度その完成されて且つ進化途中若しくは衰退途中の世界有数のメガシティーをもう一度見学してみようよ。色々な角度で。 #サイクリング #ピストバイク #東京

        正論に対する根拠

          決定論

          かつてアインシュタインは決定論を証明しようとした。運命という漠然とした主観的考え方への科学的アプローチだ。平たくいうと何をしようと運命という存在によって結論は決定的なものであるという考え方。 これは宗教的発想に近い。神という存在の肯定だ。 映画テネットではこの決定論に対する一つのアプローチが描かれている。主人公はどういう訳だか人類存続の為のキーマンと化す。主人公が何処で生まれてどう育ち、何をしようと人類存続の為に走り回らなければならない。彼には名前が無い。その運命に決定づけ

          決定論

          BARの使い方

          ディナーラッシュという映画に出てくるレストラン内のバーテンは教養豊かでどんな質問にもスマートに回答する。謎かけに近いアッパーなビジネスマンの質問、カウンターに10ドルが置かれる。一息の溜めの後、完璧な回答をこなし、さっとその10ドルを回収する。 カウンターに於いて座る人間のステイタスなどどうでも良くよく、ただその根本スペックをぶつけ合い会話を成立させ、小さなマウントを取り合う。会話上の小さな小さな勝負が行われる。さりげなく、そしてスマートに。 カウンター商売は知性と教養の塊

          BARの使い方