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決定論

かつてアインシュタインは決定論を証明しようとした。運命という漠然とした主観的考え方への科学的アプローチだ。平たくいうと何をしようと運命という存在によって結論は決定的なものであるという考え方。
これは宗教的発想に近い。神という存在の肯定だ。

映画テネットではこの決定論に対する一つのアプローチが描かれている。主人公はどういう訳だか人類存続の為のキーマンと化す。主人公が何処で生まれてどう育ち、何をしようと人類存続の為に走り回らなければならない。彼には名前が無い。その運命に決定づけられている存在に、自己の考えやアイデンティティは存在しない、個の存在の否定だ。
一方未来から時間軸を逆行してきた相棒は、自らの結論を知っている。個の消滅、即ち死ぬ事。彼には名前が付いている。死ぬという結論がわかっていながら時間を逆行してくる、運命という決定事項への否定だ。

この考え方はとても面白い。究極の相対論だ。
運命への肯定自体が行動に制限をかけるが故にそこに個は存在しない。逆は運命への逆行に個を見出す。シンプルに言うと神を信じれば個は消滅し、信じなければそこに個が成立する。もっと平たく言うと、決定論とは人によっては存在も消滅もし得ると言うもの。どちらも混在するというパラドックス。正に哲学なのだ。
1kgの負荷を押し当てる、押し当てたものに1kgの押し返しがなければその物体は移動する。移動しないならそれが同じ力で押し返しているから。
相場チャートは中期の移動平均線に収束する傾向にある。どちらに向かっても押し返す力が働く。一方通行など存在しない。
不愉快と思う人間をその目で見続けると必ずそうでも無いかなと思う事がある。好きと嫌いが逆転する事もある。究極の存在否定は好きでも嫌いでもなく、興味を持たない事だ。所謂ゼログラビティな状態。

何かしら負荷をかけていれば何らかの結果をもたらす。結果が出ないならその負荷を増やす。
個を引き立たせる為に、汗をかく。それが無ければ個など存在し得ない。
万物はバランスで平常を保つ。何かを動かすならばその均衡をぶち壊す必要がある。

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