加害と被害の断絶、僕が経験したW学園の「吊し上げ」の記憶

小山田圭吾の過去の凄惨な暴行傷害、加害行為が明らかになり、連鎖して「絵本作家のぶみ」「元ラーメンズの芸人」と過去の「不適切発言」が暴かれ、公の場から追放されている。しかし、それらは決して「過去のこと」として済まされない、現在進行形で彼らが責任を取らなければならないものである。なぜなら言葉は口に出したら消えるものではない。言葉は永遠に残る。それは雑誌のバックナンバーやネット上だけでなく、その言葉を聴いた、浴びせられた人の心にずっと残るのである。

歴史を紐解くと、常に強い者(武力や技術を独占した者)が君臨して、強いもの自身に都合の良い「正義」を、持たざる下々に対して強要していることが分かるだろう。勝てば官軍という言葉もある。

今、強いものによる正義の押し売りが上手くいかない世界になっている。いや、昔から叛乱はあった。しかし叛乱の場でも上下関係はあり、強いものが弱いものを不当に支配する構図はあった。アイルランドの初期の共和主義者内(アイルランド義勇軍など)ではカトリック的な男尊女卑があり、日本の左翼運動の中にも封建的な支配関係があった。連合赤軍などはその典型で、体育会の「しごき」や旧軍の内務班以上の前時代的な支配関係だったという。

それでも、いま#MeTooを始め、口を塞がれていた被支配の人々が声を上げ、叛乱する側の内部の矛盾にも鋭く切り込んでいる。そういう時代が来た。

ここで思うことは、加害する側と被害を受ける側には絶対に埋まらない、深い断絶があるということ。

僕は東アジア反日武装戦線にかかわる救援活動にも携わっているが、彼らはこの断絶を東アジア諸国と日本の間に見出していた。そして深い断絶を武装闘争により、祖国の侵略性と加害にオトシマエをつけることにより飛び越えようとしたと思う。

加害する側は、そのままでは永遠に加害する側なのである。加害する側が己の加害性に気がつくのは、己が被害を受ける側になったときだけだ。被害を受けるものの気持ちは、当事者にしかわからない。加害する側がそのままで被害を受ける側の気持ちを斟酌するなどということは有り得ない。あったとしても、それはポーズである。対外的に批判をかわすための。または被害を受ける側を懐柔し、より巧妙に痛めつけて搾取するための。

小山田圭吾の一件で、この男の出身学校であるW学園についての一連の投稿。僕が経験した約20年前の情景。それは、まさに「加害者生徒と被害を受ける弱者の断絶」の風景である。もっと深くに踏み込めば、それは「理想論を振りかざし矛盾の存在を抹殺する学校」内での出来事であった。つまり学校と生徒(特に被害者生徒)の断絶でもある。

ここは重要だ。

僕は思い出した。

確かにW学園では、クラスで問題が明らかになった時、みんなで話し合いが行われることがあった。しかしその話し合いとは「弱者を吊し上げる」場であった。

集団に馴染めない弱者を吊し上げ、お前が集団に馴染めないから問題が起きている、みんなが不快な思いをしてるからお前を排除したい、お前はどうする?仲間でいたいか?仲間でいたいなら、お前は変われ!みんなが問題なんじゃない。お前が問題なんだ。お前が変われ。お前が変わらなければ、みんなでお前を排除する。

こうやって吊るし上げる。それがW学園の「話し合い」だった。すくなくとも20数年前に僕が見た、経験した、僕自身が吊るし上げられた「話し合い」とは、それだ。

これは、ある意味では当たり前なのだ。いじめる側と傍観する側が絶対多数の中で話し合いをしても、いじめられる側が悪いという結論しか出てこない。そうに決まっている。W学園に限らず、どこでやっても同じことだ。だから、普通の学校ではいじめ問題を話し合いで解決などしないだろう。僕がW学園を出て進学した高校では、いじめには素早く学校が対応した。クラスメイトを笑いながら殴りつけた者はすぐさま隔離され、三者面談の後に停学、しかも授業の単位は与えられないから、事実上の退学勧告であり、そのまま学校をやめた。そこに生徒による「話し合い」の余地はない。ただ、学校による「いじめは絶対に許さない」という強い姿勢のみがある。

これこそ本来ではないのか?W学園から来た僕は強いショックを受けた。また感動した。この高校は、弱いものを断固として守るのだ。そう安心した。事実、翌日からクラス内での目に見えたいじめは無くなった。W学園と違い、バンカラ気質が残り、制服もある。W学園よりずっと「非民主的」で封建的な学校かもしれない。しかし、弱者を先生も学校も断固として守り、加害者を許さなかった。

僕が経験したW学園。その罪作りな体制は、加害者を加害者のまま、その個性と自由を尊重してしまい、つまり野放しにしてしまい、被害者はその個性を押し殺して加害者に同調する側へと連れ去られる。それが出来ないものは、ずっと抑圧されるか、学校を去るしかない。

この光景は学校の外の日本社会でもよく見られる。組織の不正を告発したものが職を追われる。愛媛県警の警察官が裏金を告発して、退職に追いやられたことがあるのを知っているだろうか。また閉鎖的な農村の村八分。またオリンピックを歓迎できないものに対して「反日」と罵倒する為政者と、その同調者。

僕は、今のW学園が悪い面を克服していることを期待しているが、果たしてどうなのだろう。いじめという、人間の尊厳に対する罪を「話し合い」というやり方で解決させることを学校が認め、また同窓生たちが誇りにしているが。それは学校による責任放棄ではないのか。理想郷の体裁をつくろうために何かを犠牲にしてはいないか。同窓生もそうだ。君たちの楽しい学校生活の思い出の中に、虐げられた弱い立場の者は存在しているのか。矛盾を見て見ぬふりした上での「良い学校」ではないのか?話し合いとは、弱いものを公然と排除するための合意形成の場に過ぎなかったのではないか。

一連の報道、SNSやマスコミへの同窓生のコメント。僕は、そこに加害と被害の間の断絶を感じてしまう。

そして、最終的に加害と被害との断絶を埋めるものは、加害する側の涙の贖罪以外に有り得ない。加害する側が自らの痛みをもって被害者の痛みを知り、涙を流すしかないだろう。

今の学園が「こうだ」というデマを防止するために、学園名はイニシャルとした。

僕は学園の自浄作用に期待していたが、やはり厳しく監視していく必要がありそうだと考え直している。いじめを許さず、弱者を守るのは大人の役目だ。





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