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2020年大晦日 一年の集大成 宇宙の果を考える家事〜デカルト「我思う故我あり」

今年の一年引きこもりが悪で無くなって
息子が穏やかになった

この一年、最低限の生活行動の中で
私は何故か釈迦ブームで一年が終えようとしている

三十年前にパタリ考えなくなった宇宙の始まりについて、今年また考えはじめるきっかけがあり、他にやるべきことがあるなと解りつつ

やっぱ好きやねん

デカルトは言いました

我思う故我あり

【正気か?!】小学生でもわかるデカルトの哲学ーより

釈迦は仏道の修行の目的に沿わないものを説明せず「無記」とした

無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。(wikipedia 無記より)

苦の根源である妄想を止めるように教えた釈迦だけれど、私から楽しみを奪うことを強いてはいない
過ぎたるは、及ばざるが如し、執着しないように楽しみたい

マインドフルネス

マインドフルネスで皿を洗うことは正しいのだろう
が、宇宙のはじまりを考えながら皿を洗っている方がもっと楽しいことに気がついた

気がつけばもう少しで終わる
この調子で来年は毎日少しずつ掃除もすればいいかもしれないと思いついた。

そしていつかは、趣味とせず、只管、家事を熟す人たちのように、当たり前に日常繰り返すその行いの心得が、私にも身につくかもしれない。

家事を熟す心はまさに中庸の極み

そこに辿り着くためにはまず「ときめき」なのだと気がついた

そのときめきが、宇宙の始まりを探している間に中庸のマインドフルネスにたどり着けばよい
私は躁鬱なのだ、中庸は苦手なのだ

座禅の瞑想からの中庸は比較的理解しやすいが、
生活の中で行動そのものを瞑想にする方法がまさに掃除瞑想(マインドフルネス掃除)が最適かもしれない

私がそこに辿り着く道を発見した

まずは楽しいことを考えながら、苦手なことをやれば良い
そのうち、時々中庸を体験し始める

そして我に帰って掃除に飽きる

また、モンキーマインドを利用して楽しくなる

それを繰り返せばよいのだ😁

では「ときめいたもの」は何だったと考えるとまた

「無記」に戻る 

「とき」はどこから生まれたのか?

「と」「き」初めの「き」はどこから生まれたのか?

何故それをブラフマーと名付けたのか?

とまた謎が深まり楽しくなってしまう。

いかんいかん。

でも、その間に掃除をすれば良い。

パーリ語サンスクリット語の英訳はこちら
無記、Avyakrita, Avyākṛta:アヴィヤーカタ、アヴィヤークリタ(それ以上分解できないもの、性質、根源、全てを生み出すもの)

我を忘れ宇宙の果に想いを巡らし
また我に帰って
皿を洗っている自分が湯を出しっぱなしにしていることに気づいて

「だめだこりゃ」と言って笑ってみた

そんな2020年年末

世界は大変な一年になった
でもその中で、楽しいことを見つけられたと
自分を褒めてみようと思う

今年はnoteライターとしてデビューし作家としても有言実行した年でした

noteでスキをしてくれた皆様
立ち寄って読んでくださった皆様
ありがとうございました

これからも皆さまの知を吸収しながら
言葉で表現する楽しみを味わっていきたいです
また、言の葉を増やしていきたい

良いお年をお迎え下さい

皆様のご無事を心よりご祈念いたします

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