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短編 『金木犀』
書斎で囲碁の定石本を眺めていると、窓から芳しい風が入ってきた。
金木犀の香りである。
書斎を出て、縁側に向かった。
庭を見ると、オレンジ色の花が咲いている。
「おいお前、ちょっとこっちへ来たまへ」
台所にいる妻に呼びかけた。
「お茶ですか」という返事が聞こえる。
「いいから来たまへ」
足音が近づいて来た。
妻はいつもより濃い目の化粧をしている。
「どうなさったんですか」
「あれを見たまへ」
「金木犀がどうかなさったんですの」
「どうかしたのかって君、あの花はひと月前に咲いて、すぐに散ってしまったじゃないか」
妻は不思議そうな顔をして私を見つめている。
「あなたご存知無かったんですか。金木犀は2回咲くんですわよ」
「まさか。そんな話は見たことも聞いたこともない」
「今見てらっしゃるじゃないですか」
「これまで見た事がないと言っているんだよ」
「だって毎年2回咲くわけじゃありませんもの」
「ということは、これは珍しい現象ということだね」
オレンジ色の花を指さして訊くと、妻は頷いている。
「それならそれで、どうしてもう少し感動しないんだ。旦那がこれほど感動しているというのに」
少し強めに言うと、妻は口を尖らしてしまった。
「まあ、それは良いとして。ちょっとお茶を持って来たまへ。ここで珍しい2度咲きの金木犀を眺めながら一服しようじゃないか」
妻は無言で台所へと立ち去った。
庭の塀の上を、1匹の猫が通って行く。
しばらくすると、妻がお茶とハッピーターンを盆に載せて戻って来た。
湯呑みは1つしか載っていない。
「君の分はどうしたんだい」
「私は結構ですわ。今から出かけるんですの」
「またジャズダンスかね」
「フラメンコですわ」
「なんだいソレは」
「スペインの踊りですわ」
「どうして君は、最近そんなジャズダンスやスペイン踊りに興じているんだい」
「異文化交流ですわ」
「異文化を知る前に、もう少し日本のことを勉強するべきじゃないのかね」
「異文化を知る事によって、日本の良さが見えて来ることもございますわ」
そう言って、妻は得意げな表情をしている。
いつからこんな減らず口を利くようになったのだろう。
私はお茶を一口飲んだ。
香ばしい。
「なんだいこのお茶は」
「コーン茶ですわ」
「コーン茶」
「とうもろこしのお茶ですわ。韓国で流行っているんですの」
玄関から「ごめんください」という女性の声が聞こえた。
「あら大変。お迎えですわ。夕方には戻りますから」
妻はそう言い残して、フラメンコに出掛けてしまった。
庭を眺めながら、コーン茶をグビリと飲んだ。
緑茶には無い香ばしさと仄かな甘味が有る。
悪くは無いが、苦味が無いのが頼りない。
これが異文化交流だろうか。
妻の得意げな表情を思い出した。
そういえば、最近ちょっと若返ったような気がする。
10代でこの家に嫁いでから、貧乏もさせたし、子育ても任せっきりだった。
彼女もようやく自分の時間を持てるようになって、失った青春を取り戻そうとしているのかもしれない。
そう考えると、異文化交流もけっこうな話ではないか。
金木犀の香りが、少し強くなったような気がした。
了
今アナタは大変なモノを盗もうとしています。私の、心です。