憂鬱と創作とおっさん

おっさんは暇である。
週末やることといえば、ぼちぼち部屋の掃除をするぐらいしかないので、
大抵は一人、その辺をお散歩をするなどして時間を無駄に消化している。
孤独感や虚しさが無いという訳ではない。
むしろ無駄に感受性が強いので、高頻度でこんな人生を嘆いている。

俺は誰からも肯定されない。
場所、時代、コミュニティといったものが異なっていたら、
異なる常識の元であれば、違うものだったかもしれないが、
この社会においてはそうだ。
肯定され得ない人間であることは、実績から明らかである。
俺にとって、孤独は受け入れなければならないものだ。

俺は、現代の社会常識がいう、あるべき姿からは逸脱している。
だから、直さなければならない。
社会の常識がそうであり、その社会の中でしか生きる力のない俺は、
それを受け入れなければならない。

だから、一般的にいう常識に則って、
悪しきを削り、隠し、良いとされるを無理やり取り付け、
サラリーマンの鏡を造形するのだ。
そして、誰にも迷惑をかけない、キレイな外側を形成する。
だが全然、全くもって未完成である。
完成するかは甚だ怪しい。

それでも生まれてしまった以上、食いつなぐ必要がある。
未完の部分は「いい感じ」に隠し、やり過ごしている。
しかし僅かでも、この未完の本質部分が露見したら…?
これだけ取り繕っても肯定されない俺は、どうなるだろう…?
そんな無限の恐怖を誤魔化して今日も食いつないでいる。
だから、しばしば気持ちが揺らいで憂鬱になるのだ。

憂鬱が来てしまったなら、もうあらゆる手段で散らして耐えるしかない。
犬のことを考えたり、デスメタルを爆音で聞いて散らすのだが、
本当にどうにもならないときは、敢えて憂鬱にどっぷり浸かって
絵を描くという形で発散することがある。
大抵気持ち悪い絵に仕上がる。

…これは一応は創作ということになるのだろうか?

所詮俺にとっての絵なんて言うものは、感情の捌け口である。
出来上がった創作物は何の価値も、教養もセンスもない、
吐いたゲロを紙に擦り付けただけの汚物だ。

が、これらはある意味、本当の俺そのものである。
俺が自分自身で否定した、社会から肯定され得ない俺の塊だ。

でもそんな絵がもし、肯定されたら?
されないだろうが、もし肯定されれば、どれだけ浄化されるだろうか。
俺は理解される可能性のある者なのかもしれないと、
そんな風に思えるようになるだろうか?
凄くみっともない話ではあるが、そんな感情が拭えないのである。

おそらく、俺は絵そのものを評価されたいのではない。
俺を肯定して欲しいに過ぎない。
なんだかこれが醜悪に思えてならない。

結局、価値があるかは他人が決めることだし、
どのように捉えられるかは分からないが、
少なくとも細々SNSに上げた絵の数々は、
誰かの心に響くものではないようだ。

純粋に、心から創作を楽しむのが本当の芸術家だろう。
描くことそのものを楽しめない限り、
俺の創作はまがい物に違いない。


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