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①One Controlの生みの親・川村朋和さんを育てた街は?

では1つ目の質問から、「川村さんを育てた街はどこでしょう」?
岩手県、ということになりますね。花巻で仕事をしてるんですけど、クラブチェンジ(岩手県盛岡市)といったライブハウス、仙台のRensaといったライブハウスとか、東北のライブハウスで色々なかっこいい音楽に触れることが出来て、私の人格とか人間を形成してくれている。これまでのことを通して自分の仕事も見つけることが出来て、岩手県で生まれて育ってきて、本当に良かったなという思いです。
でも…“岩手で生まれて良かったな”と思えるようになってきたのは、この3~4年ぐらいですかね。昔は思ったこともなかったんですけども。
今年はKESEN ROCK FESTIVAL(@岩手県大船渡市/7月)にも遊びに来てくださって嬉しかったです!
初めて行かせていただいたんですけど、良い雰囲気でしたね。本当に手作り、というか皆でやっている感じが微笑ましくもあって、良い感じだなと思って見て来ました。

“微笑ましい”1枚をアップしてみます🎶
あんな人もこんな方も写っているので
よーく見てみてくださいね!
ケセンロック実行委員長のインタビューも
こちらから

元々、川村さんが生まれた場所も現在、会社がある花巻?
そうです。4年間だけ大学で青森市に行ったんですけども、それ以外はずっと花巻にいますね。
青森ではRAB(青森放送)という放送局でラジオ番組で3年ぐらい、アルバイトをさせていただいたんですけど、その時の上司が伊奈かっぺいさんで、その時に色々と変わった方々にお会いした、ということがありまして。これも1つの人格形成の柱になったかもしれないです、19歳から22歳ぐらいまでの間に。
伊奈かっぺいさんは我々世代より上であれば東北で知らない方はいないですし、伊奈さんとご一緒したら良い意味で“変わった”方とお会いできたでしょうね。ラジオでのアルバイトというのは?
東北の大スターですよね(笑)。大学時代に軽音楽部に入っていたんですけど、慣習として何人かずつ毎年アルバイトに行くようになっていて。先輩に(バイトを)譲られて、私も行った感じでしたね。
大学では軽音部に?
そうですね、それでバンドをやってました。パートはベースだったんですけど…ギターはやっている人がいっぱいいて余ってた、みたいな感じだったんじゃないかな…確か。どうしてもベースをやりたいとか崇高な理念があったわけではなく(笑)、誰かに請われてやったような記憶がありますね。
でも、軽音部に入られたのには理由がありますよね?
中学では剣道、高校の時は柔道で運動をやっていてそれまでバンドとかも特にやってなかったんですけど、バンドをやりたいなと思って入った感じでしたね。当時、ブルーハーツ(THE BLUE HEARTS)が好きで。パンクバンドとかそういったものに憧れていたところがあったのかな…と思いますね。

川村さん愛用のベースはこちら!
TUNEというブランドの5弦ベース(真ん中)
右はフェンダー・PJベース

9月のいしがきミュージックフェスティバル(岩手県盛岡市)でもステージ前でセキュリティを担ってくださいましたよね(笑)。そもそも川村さんの音楽の原点って?
まさにブルーハーツだったと思います、「はいすくーる落書」(1989)っていうドラマのオープニングテーマが「TRAIN-TRAIN」だったんですよね。それまではいわゆるJ-POP・歌謡曲みたいな音楽ばっかりだったのに、ブルーハーツを聴いた時にはもう、急に殴られたような衝撃というか。それからすごく好きになって、中学~高校生と過ごしたんですけど、進学校だったのもあって(バンドをする)機会にも恵まれず、という感じでしたね。
大学を卒業してからもベースは続けました?
そうですね。大学の丸4年間と花巻に帰ってきてからも2年ぐらいかな、弾いてはいて。パンクバンドだったりロックミュージックは大好きだったんですけど、90年代の終わりにケン・イシイとかジェフ・ミルズだったりとか、テクノミュージックというものが流行った時期があったんですよ。その洗礼を受けて、嗜好がテクノの方に行ってしまいまして。それで、音を変える道具で「エフェクター」というものがある…音を色々と変えられるというのはすごく面白いなと。
昔のエフェクターは「音を良くする」ためだけの道具だったと思うんですけど、音を積極的に変えて聴いたことのない音を出したり、新しい世界を見せてくれる。田舎に住んでいたので新しい音に触れる機会がそんなになかったんですけど、エフェクターを色々と繋いだり組み替えたりすることで、これまでに聴いたことのない音を作ることも出来る。もちろん音楽は大好きだったんですけども、「音そのもの」に興味が出てきたと言うか。クラブにも行って、CDを買い漁って、電子楽器・サンプラーだったりも買ったりしながら、自分で遊んでましたね。
テクノの洗礼を受けた頃は大学を卒業して花巻に戻ってきていると思うのですが、生業としてはどうされていたのでしょう?
(卒業して)1年間は実家の農業を手伝って、その後、花巻にあったCD屋さんで正社員として働かせていただきまして、丸3年働いて退社して独立した、みたいな感じです。
働き始めて1年ぐらいして“何がやりたいんだろう”って考えると、やっぱり、音楽だったんですよね。それでちょっとライブも出来るBarのような、ライブハウスみたいな感じですかね、そういう場所がやれたらと思って。本当に全くお金がないまま退職して、花巻にちょっとしたBarスペースをオープンするんです。2004年・27歳の時ですかね。
でも正直、厳しくて1年ぐらいで開店休業みたいな状況になってきまして、どうしようかなと思いながら…エフェクターが好きだったなと思い出しまして、海外に売りたいなと急に思ったんですよ。最初の最初は自分が持っているものだったと思うんですけども。
確かに急ですね(笑)。
当時、eBayっていう(EC)サイトがスタートし始めて、そこで日本の中古楽器を海外に売ったらどうなるんだろう…って思いついて、それを始めるんです。とにかくお金がなかったので、売れたお金を使って買って、また売って。かなりの自転車操業みたいな感じでやっていたんですけども、大分マニアックなものを当時は手に入れることが出来て、海外に販売することでアメリカのマニアの界隈ではちょっと有名になったんですね。それでその時に色んな方と友達と言いますか、仲良くなる人が出来まして。その方々とは今もお付き合いがありますし、ヴィンセント・ギャロっていう俳優がいますけど、あの方もエフェクターがお好きで多分、私が初めて(対面で)ちゃんとお話をした外国人はヴィンセント・ギャロだと思うんです。
いきなりさらっとビッグネームすぎです(爆)!
確か、誰かの紹介ではあったと思うんですけど“探してる商品がある”と言われて、それをたまたま私が3台持っていまして(笑)。フジロックで来日すると言うので、宿泊している東京のホテルの部屋にエフェクターを持って行きましたら、それを買ってくれまして。
そんなことがあるんですか…ちなみにどんな機材だったのでしょう?
日本のローランド製のBeeBaa(ビーバー)というエフェクターで、アメリカでは良いコンディションのものがなかなか手に入りにくいと。持って行ったら、確か…3台全部買ってくれた気がするなぁ。その時、ヴィンセント・ギャロが持っていたギターも触らせてもらったりとかして、この仕事は間違ってないしこれは仕事になるのかも、と思って。そこから、ちゃんと真面目に仕事しようって。

ヴィンセント・ギャロとの1枚
がっちり固い握手を
交わしています!

これはインターネットの台頭に川村さんがいち早く乗れたのもとても大きい気がしますね。
確かに、そう言われるとそうだったと思います。それまではファックスでやり取りするような時代からちょうど電子メールというものが発達してきて、全てがウェブで完結できるという元年、みたいな時でしたからね。
川村さんは英語とか、語学というのは?
いや~…もう全く。高校の時は英語なんかクラスで一番できなかったので全く何も分からない状態で。“Yes”か“No”かを確認してるのに、書いてきている内容がもう何のことか全く分からない。当時はオンラインで翻訳もできる出始めではあったんですけど、全然役に立たなくて何を言ってるのか結局分からない。ずーっと辞書を引きながらやってましたね。英語(力)の準備とかをする前に始めちゃった感じでした。(インタビュー②に続きます)

【川村朋和/LEP INTERNATINAL代表】
 岩手県生まれ 岩手県在住 
One Control、Effects Bakery、Animals Pedalといった
オリジナルのエフェクターブランドを主宰する

趣味はブラジリアン柔術
 好きな食べ物はプリン

【「②「川村朋和さんの大切な1曲は?」に続く/10月11日更新予定】

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