見出し画像

ボアッチで銃声?(南米放浪記③)

ここからは順不同で断片的なエピソードを思い出したとこから書いていきます。時系列順に書こうとすると筆が鈍りそうなので。

とはいえ、まずはブラジル到着初日の話。

1993年4月、学移連(日本学生海外移住連盟)の面々に見送られて、その年度の海外実習生4名と一緒に成田から南米に飛び立つ…はずだった。
しかし自分は見送る側にいた。なぜか?
…ビザも取った後にパスポートを紛失してしまっていたのだった。なんと間抜けな。
新聞販売店の仕事を辞め、借りていたアパートを職場の同僚の〝イッシさん〟に引き継いだりといった、ブラジルへ行く準備でバタバタしている中で、気付けば「あれ?そういやパスポートどこやった?」というざまに。
そこからパスポートを再発行して、ビザも再申請して…となって、結局自分は6月に遅れて渡伯することになった。
しかし結果的にこれが功を奏した。
自分は正規の実習生ではないから、年度頭からきっちり1年間任期を務める必要もなかったわけで。
もし実習生と同じ飛行機で南米に着いたとしても、行き先はみなそれぞれだったから、すぐに別れて各々が滞在先まで向かわなければならなかったのだが、2ヶ月遅れでブラジル入りしたことで、先にサンパウロ新聞社で実習を開始したサイトーさんの所で何日か世話になって、一旦落ち着いてからマセイオに移動すればいいという段取りになったのだ。

1993年6月6日、成田から大韓航空機で、ロサンゼルスを経由して、サンパウロ・グアルーリョス国際空港着。
登山用のザックに思い付く限りの荷物を詰めて、日本から地球の反対側ブラジルまで丸1日かけて飛んで来た。
空港からサンパウロ市まではさほど遠くなく、サンパウロ新聞社は日本人居住区のリベルダージの中のわかりやすい場所に位置していたため、迷うこともなく到着できた。
本社ビルの6階だか7階だかに空き部屋があり、サイトーさんはそこに住まわせてもらいながら、階下の記者室で働いているという。
とりあえず、その部屋で4〜5日厄介になる。荷物を下ろしひと安心。

サイトーさんは学移連からの実習生としてサンパウロ新聞社に勤務しているが、本当はアマゾンで釣りがしたいがためにブラジルに来たという、なかなかしたたかな人物だ。

上の階にあるカフェーにも連れて行ってもらい、ここは新聞社に働く人が社員食堂のように利用しており、朝はコーヒーとロールパンが無料でもらえるという説明も受けた。

先に2ヵ月弱サンパウロで生活しているので、到着したばかりの自分にとっては案内役として大変ありがたいサイトーさんだが、どういう流れでそうなったのか憶えていないが、着いた初日の夜にいきなり「ボアッチに行こう!」ということになった。…ボアッチ?

なんでも、日本からブラジルに出向している銀行員や商社マンと仲良くなったそうで、その日の夜たまたま飲みに連れて行ってもらえることになっていたらしい。「彼らは羽振りがいいから奢ってもらえるよ。」と。

ボアッチというのは、今で言うとキャバクラや出会い系バーのような感じだが、実はプロスティチュートの女性が客待ちをしている所で…なんというかもっと直接的な大人の社交場?

のこのこ着いて行った自分も、入り口の強面のボーイ(いわゆる黒服的な?)にビビりながらも、薄暗い店内に入った。

いきなり目に飛び込んできたのが、トップレスのポールダンサーだったから、着いた初日に刺激が強い!

初対面の銀行員だったか商社マンだったかの2人組は、日本からはるばる来た学生だということでサイトーさんと自分を気前よくもてなし、サンパウロでの暮らしをいかに楽しんでいるかを上機嫌で喋る。

確かにこんなところで毎晩のように飲み歩いているのだとしたら、相当いいご身分だ。

93年当時のブラジル経済は、通貨クルゼイロが超ハイパーインフレでデノミを繰り返していた状態。新通貨レアルが安定していくのは、さらに後年のこと。

その頃でだいたい「50万クルゼイロ」が日本円で500円ぐらいの価値だったと思う。1万5万のクルゼイロ紙幣がどんどん紙くずのようになっていく混乱の最中だった。

そんな頃にまだバブルの余波があった日本人サラリーマンが、南米に支社とか支店とかがあったんだろうけど、サンパウロ市中心部の高級マンションに住居をお手伝いさん付きで用意してもらって、2000ドル以上の月給をもらっていたんだから、そりゃ「遥か地球の反対側の国に来たら極楽だった!」みたいに浮かれるのは仕方がなかったのかもしれない。

自分もよくわからないなりに「いやあ、すごいッスね。いい暮らしッスね。」的なお追従も言い、きっと高い酒も飲ませてもらっていたが、とにかく周りの乱痴気騒ぎに当てられちゃって、頭クラクラしていた。

どのくらいそこにいたんだろうか、よく憶えていないのだが、とにかくある瞬間にババババッとそこにいた客が一斉に身を伏せた時があった。

「えっ?…何なに何?」…とその時は意味もわからず、サイトーさんと自分も頭を低くしてしゃがみこみ、「どうしたんですか?」と出向組に尋ねると、周りの人に聞いて「どうやら店の前で発砲があったとかなんだと。」

…おいおい! 着いた初日の夜にこれかよ、と。ブラジル、刺激強すぎるだろ!

結局、何の被害も無かったのだが、自分は大いにびびった。いやいや、浮かれてる場合じゃないぞ、と。

その晩それからどうしたか定かではないが、サイトーさんと自分はさんざんご馳走になった後、タクシーでサンパウロ新聞社まで帰って来たはずだ。出向リーマンは、店で女の子と交渉していたから、その後も流れでどっか行ったのかもしれないが。(彼らに会ったのはその時っきり)

サンパウロ新聞社がある通りも、1本裏道に入るとトロンバ(トロンバジーニョとも言う。路上の強盗)がよく出現するとも聞いていたから、用心しなければならない。

翌日の昼間、自分はセントロ(旧市街)に出掛け、露店のようなところで地元の人と同じような格好をするべく、シャツとサンダルを買った。

日本からニューバランスのバッシュを履いて来たのだったが、路地裏では少年の強盗団などに囲まれて、腕時計や現金だけでなくスニーカー狩りのような目にも遭うこともあるという話も聞いていたので。

道行く人を見ていると、大抵の人が「raider」というロゴが入ったサンダルを履いているようだったので、そこの(「ハイデー」と読むらしいと知った)安いビーチサンダルと、サンパウロが地元のサッカークラブ「パルメイラス」のユニフォームシャツを買って、その日からその格好に着替えて出歩くようにした。

その判断が良かったのか、自分はその後強盗被害に遭ったこともないし、終わってみれば南米滞在中に特に危険な出来事もなかった。(カーニヴァルの時に警官に警棒でど突かれたくらい。)

水が合わないとよく言われてもいたが、下痢ひとつしなかった。メシが口に合わないとも聞いていたが、現地の人と同じように豆似たやつ(フェジョン)とかを喜んで食ってた。

なんだかんだで、ブラジルに合ってたんだよな。若かったその時だからだったのかもしれないが。

とにかく、到着初日に衝撃的な夜を過ごして、この先どうなるのかと危ぶまれたが、それはその日だけのことだったという話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?