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今考えていることについて, ゲイ, マルチタスク, コミュニケーション, 小説, 体液, 弱さ

何か一つ妄想の流れに入ってしまうと、いくつかの思考が同時に行われる。しかし、それは直ぐに織物のようにひとつの思考へと執着をする。一体、スタイルとはどのようなものであろうか。それこそまさに、形を持つことが出来なかった、いや、まさに形を持とうとした瞬間に崩れて汚らしい嫌な匂いのする液体に代わる卵のようではないか。半熟の卵を潰して指に着けた時、最も嫌な匂いがする。想像の織物を形にする時、スタイルはまさにできあがると同時に、それが生卵になるか半熟卵になるか完熟卵になるか、客観的に決定される。しかし思考は卵のように単純では無いかもしれない。いや、卵だって複雑なのだ。もちろんその通りだ。

多角的に考えようと、浅田彰の未熟な読者が考える時。同時にいくつもの重要なマルチバースを放棄する。女を抱いた男がここにいる。女を抱けなかった男がいる。両者は女をコレクションするという普遍的になってしまった社会のゲームの中にいて、彼らは競い合うことになる。多角的に考えようとすれば、いや、女をコレクションのように扱うのは趣味が悪いのだ、だとか、過去の経験になにか女性に関わるコンプレックスがあるのだと考え、オルタナティブな提案をしようと考える。しかしその時彼らの心情を一切無視しているのに気づく。しかし、同時に多角的に考える者は彼らの心情がシステムに作られたことに気づく。ここで、理性的な功利主義者ならば相対化して考え、この全ての"パラノ"な結び目を剣でバッサリと切り取り、それぞれのリボンの長さを小学生の算術のように考えるだろう。しかし一体どうしようもないのが現実で、成立したゲームを終わらせることは最も難しい。"空気"というものが、人間の合意を一切無視した物自体として誕生してしまう時、我々はどうしようもなくそれに拘束される。理性のあるものが合理的にそれを結び目を解こうとしても、ゲームに準拠した彼らが、さらにそれを訂正する。「いや、我々はこういうゲームでやっているのだ」、と。

最も合理的な俗物は、一切のゲームに準拠したまま、「いや、我々はそのゲームにおいて弱者なのだ」と唱える。これは素晴らしい戦略のように思われる。ゲームから降りたように見えるし、それは一見「逃走」のように見えてクールに映るだろう。しかし実際はゲームの土俵で戦うための戦術であることに直ぐに気づく。ゲームのプレイヤーは弱者というロールをゲームのキャラクターの属性のひとつとして捉え、そのアイデンティティが崩れる隙間を見つけたら、直ぐに彼らの土台を壊してしまおうと訂正の攻撃を行う。「いや、君はその属性ではないのだ。君の全ては間違っている」と、言う。理性的で多角的に見ることが出来る者は、「それは確かにそうだ。しかし、彼は実際別のゲームにも属していて、彼は彼自身であるのだから、そのような属性はひとつの戦略に過ぎず、君はなにかを看破した訳では無いのでは?」という事が出来るが、そのゲームは好んで入ったと同時に強制的に入れられているため、このような言葉は一見土台を崩された者にとって利するように見えて一切役に立たない大言壮語なのだ。

別のことを考えてみよう。性欲の方向性=性癖という属性は俗的に、そのまま直結でセクシュアリティに繋がるように見えるが、実際のところそうではなく、むしろ現実のジェンダーに対して、オルタナティブなエゴを生成し、それに対してインターネットのハイパーリアル世界における、<複製された私>が持つ疑似ジェンダーの話をしているに過ぎず、その背景には明確に訂正されるための材料としての<オリジナルの現実の私>が持つ性欲の方向性がある。簡単にパラフレーズすれば、2次元においては可愛い男性キャラもイけるが、現実においては女性しか受け付けない、という男性のオタクがまさにそれである。しかし、私が面白いと思うのは、むしろハイパーリアルの持つバーチャルなものが、アクチュアリティをもって現実のオリジナルを書き換え訂正してしまう可能性があるということだ。男性キャラを愛でていたら、いつの間にか現実でも男性を愛でていたようなことである。これは完全に無視できる訳では無い。ケースは少ないかもしれないが、実際ありうることだと思う。インターネットにおけるエゴを訂正するための現実のエゴが、反対に訂正されてしまうという構図、これは非常に面白いモデルのように思われる。しかし、同時に、テクスチュアルな性癖が、現実のそれに対してギャップを感じてしまい、訂正が途中で拒否されるという可能性もあるのは留意されるべきだろう。よって、フロイトが昇華という有名なシステムを、絶対的に皆行えるという訳では無いと言うように、これは個人差がある話だと思われる。だが、このオルタナティブなエゴが持つ、訂正可能性というのは非常に面白いように思われる。ヴァーチャルなものがフィジカルを持って再構成されるのは、オタク的な世界における充足と発展なのは間違いがないだろう。結局の話、我々の性欲というのは規定されるべきではなく、浅田彰, 上野千鶴子が語るように、常に差異として愉しく享受できるように考えられるべきであり、何ら規制を受けて、少なくとも他者から強要されるべきでは無いのだろう。

小説というものを考える時、私はどんな長さのものでも簡単に読むようにしている。面白いものはそれで充分だからだ。小説を仮にフィジカルなスタイルに固定されるとしたら、それは恐らく体液のように匂いの中に空間性を持ったものにされるべきだ。それはスペルマであり、決して子宮に行き着くことの出来ないものだ。子供を産むことは無い。それはゲイのように他者の精液に興奮して、自分も精液を吐き出すような運動であるべきだ。そこにコミュニケーションと対話があるべきでは無い。だができることなら「二次創作」は辞めたいものだ。それよりもずっと好ましいのは切り貼りをしたスクラップ帳のようなものだ。小林秀雄のように読むことを教えるなんてのはとんでもない。再生産ではなく、流れとして捉え、似て非なる差異を持った人間の体液のようにして流出させたい。それは必ず失敗をする、しかし、射精という現象自体は皆同じように、いや、精液でなくとも、液体を発射する運動, 現象というのは共通のように、スタイルは一見異なるように見えてきっと同じなのだろうと思う。

ゲーム、いや、分かりやすくその空間の空気とも言おう。空気は向こうからやってくる。勝手にやっていると自分では思っても、メタ的に見ればそれは分類分けが可能な行為であるということはほとんどだ。美大に行く気がない女子中学生が「いや、私は勝手に楽しいから描いているのであって、なにかに入るためにやっているのでは無い」と言ったとしても、数年後彼女は好き勝手絵を描いた経験からなにか得るものがあり、実際美大に向かうかもしれない。現在の自分をやっているゲームを、未来の自分は実はあのゲームは今やってる私のゲームの流れのひとつのモーメントであり、君が入っていると思ってたゲームは実は小さな枠のひとつでしかないと否定するかもしれない。だが、願わくば他者から強いられたゲームというのには入るか入らないかの選択が欲しいものだ。決して現実が強いてきても、いや、僕はやらないと言いたい。その強さを手に入れるためにはどうしたらいいだろうか?

答えは簡単で、消えてしまうことだろう。しかし、ゲームに入ることは安心感を得る。小学生の頃と恐らく同じで、なんだかみんなといることで安心感を得ていた。ニルヴァーナが如何にダウナーに歌おうとも、彼らの歌と、プロレタリアートが団結し歌った歌では昨日としてきっと同じだっただろう。

学部卒の女がいる。彼女は文学部に入ったから自分が文学をわかっていると勘違いをして、高校生が半年まともに読書したら理解できるような範疇で、太宰治や芥川やら夏目漱石を語っている。おそらく高校生が柄谷行人の1冊の本と、夏目漱石の評論部分の全集を数冊読めば、学部卒の女に対して「君がやっているのは単なるオタクのゲームで、学問的なゲームじゃないよ」と語ることができてしまうだろう。卒業という資格はなんだか安定を与えてくれるし、なにか本を読めば自分は文化人のような気もしてしまう。願わくば本も捨てて他人も捨てて一切をハイパーリアルに埋めてオタクに生きてしまいたいものだ。結果として通うことになるのは週1以上の精神科だとしても、それはそれで前述の弱者のゲームに逆戻りをして安定するかもしれない。しかし、どうやっても不安定になってしまうのなら、やはり目指すべきはオタクを捨てた真のテオーリアであり、必要なのは本では無い、ということになるだろうか。たくさんの「身内」が会話をする。そのとき、全くの他者が彼らに宣告(Sentence)する。君たちがやってるのはこうこうこうで痛々しいと。

かつてこの方法で日本を席巻した天皇も、あるいは外国の占領兵ももはや来ないだろう。我々は我々で武器を持って自分の土地を守り、可能な限り理性的に、多角的に、言葉を持って議論をする、柔らかい戦争に、インターネットの中で行い続けるしかないのだろう。如何にネットを捨てて現実的に生きろと唱えても、それはおそらくネットの中で唱えることになる。そしてネットの主体が現実の主体を書き換えてしまうだろう。いたちごっこでは無い、ネットの勝利だ。

可能な限り理性的になるというのが、生きることのコツに違いはない。


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