351 古代中国文明
はじめに
中国ドラマや映画など好きな方も多いかと思いますが、中国と日本は古くから文化の交流や学問、技術の伝来などといった面で深く関わりがあります。
そのため、封神演義、西遊記、三国志、水滸伝、キングダムなどなど、日本のアニメや演劇、映画などにも中国の歴史巨編は大きな影響を与えています。今日は、大学入試世界史Bにも関係する古代中国文明について、歴史ロマンあふれる場面や見どころを簡単に紹介してみたいと思います。
皆さんが詳しく調べていく上できっかけとなる程度の紹介になってしまいますがよかったら動画も合わせてご覧ください。
古代中国と二つの大河
古代中国には 2つの文明が存在しました。 それが、黄河文明と長江文明です。世界4大文明の一つにも数えられる中国文明ですが、世界の中でもかなり古くから文明の現れた地域と考えられています。
原始的な農耕文明や石器文明までさかのぼれば、紀元前5000年ですから約7000年前までさかのぼることができると言われています。
因みに、今では中国文明という名称で中学校では教わりますが、30年ほど前には黄河文明という形で長江文明と分けて教科書に記載されていました。
黄河文明の時点では、青銅器や鉄器などは作られていませんが、金属器を用いて発展していく過程は、日本をはじめ多くの地域の文明の発展にも影響を及ぼしていきました。
仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)
黄河文明の前半を仰韶文化といいます。雑穀と呼ばれるアワやキビなどが栽培されました。それに伴い、収穫した雑穀を保存するための土器が作られるようになりました。彩文土器と呼ばれるものです。
また、黄河文明の後半を竜山文化といいます。黒陶と呼ばれる薄手の土器や灰陶と呼ばれる厚手の土器がつくられるようになりました。また、竜山文化の段階で、 邑(ゆう)と呼ばれる集落が生まれます。この 邑は、訓読みでは「むら」と読みます。また、この邑は血縁者どうしが集まって作った集落なわけですから、同じ苗字をもつ一族がまとまり、勢力を維持していくことになります。
長江文明
もう一つの文明が長江流域ですから、黄河より南に位置する場所に栄えた文明、長江文明です。
長江文明を語る上で有名な遺跡と言えば、河姆渡遺跡(かぼといせき)です。日本で言えば、登呂遺跡は稲作文化の定着を見ていく上で重要なわけですが、河姆渡遺跡からは、長江流域で稲作が盛んにおこなわれていた様子を伺うことができます。中国大陸から米作りが渡来人によって日本にもたらされたことを私たちはこうした歴史から実感することができるわけです。
史記
中国の歴史を私たちが書籍で学ぶ場合、「史記(しき)」という歴史書を現代語訳したものを読むことが多いように思います。
この史記は、中国の漢王朝の時代のなかでも前漢と呼ばれる武帝の時代に、司馬遷(しばせん)によって編纂(へんさん)されたものです。現在でも、中国史上最高傑作とされている歴史書です。
全130巻の中の「項羽本紀」に収録されている「四面楚歌」はいまでも故事成語としてよく使われます。敵や反対勢力に囲まれて孤立していることを表す言葉ですが、項羽が劉邦に敗れた垓下の戦い(がいかのたたかい)などは、歴史的に見ても大変興味深い出来事です。
幻の王朝
夏王朝(かおうちょう)の研究は現在も進んでいて、多くの遺跡や甲骨文字が刻まれた竜骨が発見されています。こうした発掘の成果はたびたび、中国の古代史に新たな一ページを加えています。
現在では、紀元前2100年ころから紀元前1600年ころに栄えた中国最古の王朝という見方が強まっています。初代の皇帝禹(う)から末代の桀(けつ)まで17代、ほぼ471年続いたと記録されています。伝説上の王朝とされてきましたが、近年、実在が見直されています。
とにかく、司馬遷の「史記」を手に取ってみてください。古代中国の歴史に相当する部分としては「五帝本紀」「夏本紀」「殷本紀」の部分が該当すると思います。歴史から教訓を学ぶという意味では、王朝の成立、繁栄、衰退、そして新たな王朝の誕生という具合に場面に応じた心のありようや国の政のあるべき姿を学ぶことができます。
また、司馬遷という人にも関心を持ってほしいと思います。歴史書を完成させるという情熱の前では、彼は自分自身をなげうってでも取り組みました。彼の人生には李陵という友人が関係していますが、その李陵を知りたければ中島敦の山月記なども読んでみるといいかもしれません。
日本史を学ぶ上でも世界史を学ぶ上でも厚みのある歴史を有する中国史は、大いに学ぶ価値があります。
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