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198 七五三


はじめに

毎年11月15日を中心に住んでいる土地の氏神様に子供の健やかな成長をお祈りをするものとして七五三という年中行事があります。起源は室町時代といわれていますが、江戸時代の武家社会を中心に関東から全国へ広まったものとされています。
今のように医学が発達していない時代でしたから、子どもの健やかな成長を願う行事はほかにもありましたし、家族全体の健康や安泰を祈願する習わしもそれ以上に年中行事の一部として行われていました。
当時は、七歳までは神の子と呼ぶ風習があったように、特に幼い子供の死亡率が高かったこともあり、宮中などではある一定年齢まで無事に成長したことを神様に感謝する習わしがありました。
七五三には、これまでの感謝とその先の長寿を願う意味合いがあるのです。江戸時から明治に移り変わってもこの風習は受け継がれ、現代のスタイルになったのはこのころだと言われています。
今日の教育コラムでは、11月15日ということで、七五三について少しお話してみたいと思います。

知っておこう

七五三は、男の子は数えで3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年に、成長を祝って神社・寺院などに参詣するというものです。
そこで、数え年という考え方についてお話しておきたいと思います。数え年は生まれた年、つまり0歳の時を1歳と数え、次の1月1日を迎えるごとに年をとる考え方です。昔は、数え年でお祝いをすることが多く、自分の誕生日での都市と数え年での年の2つを使い分けていました。今でも、伝統的な年中行事において、年齢が関係する場合は、実際の年齢と数え年を使い分けることが時々あります。

数え年の考え方

数え年で、生まれたときを1歳と数えるのには、理由があります。大きな理由としては、仏教の考え方が関係しています。日本は飛鳥時代以降、積極的に朝鮮半島や大陸から仏教を学び取り入れてきました。
世界三大宗教の中でも最も起源が古い仏教の考え方に影響を受けている国は多くあります。日本における数え年も、お腹にいる期間を0歳とする、この仏教の考え方に基づいているのです。
また、日本には、年神さまから新しい歳をいただくという考え方が古来から存在していました。年神さまは、1月1日に新たにめぐっていきます。そのため、元旦に1つ歳をとる、数え年で年齢を数えていたのです。
ですから実際に、厄年や長寿のお祝いなどは、数え年で今でも行われています。行われていたため、古希や喜寿など、年齢をお祝いする伝統行事では、今も数え年が行われています。
例外と言いますか、60歳を迎えたことを祝う、還暦は生まれた年の干支が同じになることを祝う行事のため、誕生日を用いた満年齢でお祝いします。

徳川綱吉

1681年に旧暦で11月15日に館林城主である江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男の徳川徳松の健康を祈って七五三が行われました。徳川徳松と聞くと将軍の長男でありながらも、5歳でこの世を去った不運の世継ぎであったことが思い浮かぶわけですが、綱吉が七五三という子どもの健やかな成長を大切に祈った理由がこのことから見えてきます。
江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」は、徳川15代将軍のなかでもあまり評判の良い将軍ではありません。特に悪法として名高い「生類憐れみの令」を発したことでとても有名です。
また、徳川綱吉の名前に「家」の1文字がありません。それは徳川綱吉が、将軍候補から外れていたことを意味します。 綱吉は、3代将軍の徳川家光の四男として誕生しました。4代将軍は、綱吉の兄の徳川家綱が就任しました。しかし、病で急死し、もうひとりの兄「徳川綱重」もすでに亡くなっていたため、徳川綱吉が後を継ぐことになぅたのです。しかし、内部では反対する者もいましたが、あの水戸黄門で有名な徳川光圀が徳川宗家の血を絶やしてはいけないということで綱吉を将軍にすることを押したと言われています。

生類憐みの令

悪法として扱われてきた、生類憐れみの令ですが、実はその見直しの声が上がっているのも事実です。
徳川綱吉が幼い頃から儒学を学んできました。儒学の教えのなかには、「人を思いやり、誠実であること」という教えがあります。徳川綱吉が将軍になった頃、長い戦乱の名残から暴力で問題を解決する傾向がまだまだ残っていました。社会では、放火や辻斬りといった物騒な事件も多発していました。また、重病人を見捨てたり、生まれたばかりの赤子を間引きしたりするなど、世の中には命を軽視する傾向が多方面で見られたのです。
幼くしてこの世を去った息子から、命の重さを学んだ綱吉は、当時の様々な社会の問題の中から、「命を大切にする」という大切なテーマを取り上げ、強い法令によってその改革にあたったと言えます。
徳川綱吉だからこそ実行できたことだったのかもしれません。生類憐みの令という法令で禁止したことは、庶民や武家など身分に関係なく、皆平等に処罰を下すことにもつながりました。生類憐れみの令は儒学を重んじた綱吉が社会に呼び掛けた、現代風でいうところの「人権を守る法」だったと考えれば、悪法という評価が妥当ではないとも言えるのではないでしょうか。
歴史の評価とは、後々の世の人が時間をかけて判断する中で、その評価も変わっていくということです。意味がないと思われるようなこと、無駄だと言われているようなことでも、後々の世に大きな影響を与えてきたことは歴史を紐解くと意外と多く存在するのです。

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