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私の「note」のこれから。

最近、「note」との向き合い方や、自分が書かれる内容のことについて、記事にされている方を幾人かお見かけした。

もちろん、「note」との向き合い方は、皆さんそれぞれで、私は私の「note」との向き合い方があっていいと思う。

だけど、時々不安になる。


こんなに洗いざらい、何でもかんでも書いてしまっていいのだろうか。


たいていの方は、自分の全てをさらけ出すなんてことしないと思う。


「note」で表明していることは、自分の「ほんの一部」。
それが普通だとおもう。


私も、全部さらけ出しているわけではない。
だけども、他の方と比べると、おそらく随分と・・・。


「note」には、私の書きたいことを書く。とは、言ったものの、まるっきり他人のことが気にならないとはいかないものだ。

幼い頃、よく実母に「よそで、余計なことを喋るんじゃないよ」と繰り返し言われていたせいだろうか。

自分ごとを、大っぴらに喋るのは、恥ずかしい事なんだと心の根底にのこっているような気がする。

母は家庭内のことが外へ漏れるのをひどく嫌った。

まだあどけなかった小学生のころ、逐一「余計なこと喋ってないやろな?」が、母の口癖だった。


だから、書いたことについて他人にどう思われるかというより、こうして、自分のことを、おおっぴろげに書くことに、時々罪悪感をかんじたり、不安になったり、記事を投稿するのに、少し勇気がいったりする。


ダメなことをしている気がして。


だけども、「note」を始めてから、イイ感じに人生歩めている気がしてならない。


いくつになっても、悩みも、迷いも、苦しみもあるが、「note」に書き記すことによって、落ち着きを取り戻し、真摯に壁と向き合うことができ、自分の進むべき方向が見えてくる。

ときには、モヤモヤはもやもやのまま、進むべき方向が見えてこないこともあるが、心なしかスッキリする。


まぁ、いいか・・・と。


それに、記事にすることで、人生の先輩からは、違った視点からのコメントを頂いたり、同世代の方からは、共感や励ましの言葉を頂いたり、時には私が書いた記事で気づきを得ることができたと、若い世代の方が残して下さる。


頂いたコメントは、記事を書くことによって、得られた「副産物」だが、私にとって思わぬ「宝」となる。


書き記したからこそ得られることで、書き記さなかったら得られないことだ。

コメントを頂くことで、一歩も進めなかったことが、一歩進めることもある。


また、「喜び」や「気付き」は、より一層、思いを味わうことができたり、書き記す過程で、別の視点から物事が見えてくることもある。


「悩み」も「迷い」も「苦しみ」も「喜び」も「気付き」も、ぜんぶ書き記すことで、じっくりと味わっているのかもしれない。


そのお陰か、地に足をつけて人生歩めている気がする。


「思い」は「確信」へと変わり、意気揚々と。


何なら、ストレスらしいストレスをそう感じなくなったかも。
(ただの老化?)


これはもう、人生後半、このままでいいのかな。


「note」の形態も、変えなくてもいいのかなと。


心の根底にあったかもしれない「罪悪感」もとっぱらって、書きたいことをかく。


それでいいのかな。


49で始めた「note」。
人生後半、「note」と並走しながら、続けることができる限り、続けてみよう。


あと、最近になって思うこと。

私は基本、人見知りで、すぐにはベラベラと喋らないけど、つきあいがある程度長くなって、親しみをもつと、それなりに喋る。

根は、「大阪のおばちゃん」だ。


なので、「note」でも、特に付き合いが長い方に、一方的に親しみをかんじて、読ませて頂いた記事に、遠慮なくツッコんだり、感情が溢れた時にはそのまま文字にして、コメントに残す。


たかだかSNSで知り合っただけの、お顔も拝見したことのない方に、失礼かなと思いつつ、限りなく「自分の素」に近い形でコメントを残すことがある。


にも拘らず、大きな器で、私のコメントを受け取って下さっている皆さんに、この場をお借りしてお礼申し上げます。


いつも、ありがとうございます!😊


私のツッコミに、皆さん、上手く返して下さるので、感謝しています🧡

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