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アイスランドから見る風景:vol.10 消費を手放す

先日、アイスランド人記者が書いた面白い記事を読んだ。内容はアイスランド人の消費について、タイトルは『買って、放つ (Að kaupa og sleppa)』というものだった。アイスランドの国民的スポーツである鮭釣りでは、釣った鮭を再び川に戻す、という習慣がある。それにちなんで、例え何かを買ったとしても、その行為に満足したら、買ったものを手放してみるのはどうか、という提案だった。手放すということは、買った店に返品するのではない。買ったものをタンスの肥やしにしたり、物置に入れたままにするくらいなら、売るにしろあげるにせよ、使ってもらうことを念頭に、手元に残さないようにするのはどうか、ということらしい。

ロックダウンやリモートワークを通じ、これまでの価値観が見直されている今日、消費活動そのものを疑問視する声が大きい。欧米のメディアでも、小売りの作ったセールス イベントに乗せられたくない、このご時世モノを買うことに時間や労力を費やすよりも、家族や友人との集いを大切にしよう、という趣旨の記事をよく目にする。その点からすると、アイスランドの記事は少し趣を異にしているように思う。

アイスランドを含め、資本主義を標榜している先進国は、大衆の消費活動を前提に機能している社会である。消費されるモノの種類や量に差こそあれ、消費社会は基本的に同じ構造だ。売り手と買い手が存在し、一方がモノを生産し商品として売り出し、他方はそれに見合う代価を払うことで、モノを受け取ることができる。貨幣の介在によって分業が進み、それぞれの業界に専門業者が生まれ、個人が自分では作れないものを所有できるようになったのは、素晴らしいことだと思う。現代の先進国に住んでいる人たちは、住宅から食事や衣料まで、昔日の王族のような暮らしをしていると言っても過言ではないだろう。

しかしながら、この”モノ消費社会”は、今日どちらかと言うとマイナスのイメージが付きまとう。きっとそれは、本来は個人の生活を快適かつ豊かにするはずの社会活動が、その軌道から外れて一人歩きしてしまったことに起因するのだろう。市場にはモノが余って、溢れかえっている。しかし、そうは言っても生産の歯車を止めることはできない。そのために売り手はモノを必要としない買い手にも購買を求めるようになってしまった。財力のある企業が、消費者心理を穿ったマーケティングで戦略を立てようものなら、消費者を操作することはいとも容易い。理知的な前頭葉が作動する前に、原始脳の欲望スイッチはすぐにオンになり、わたしたちは造作なく彼らの掌で転がされてしまう。

ころころ転がされるのは、アイスランド人たちも同じで、彼らも積極的に消費活動に参加している。オンライン ショッピングができるようになってからは、ますますモノ消費が加速していることは間違えない。購買価格と送料を合わせたものに24%の関税とプラス手数料が加算されても、何のそのだ。オンライン ショッピング利用者は、子供からお年寄りまで年齢層は幅広く、なかでも自分の口座が持てるようになる15歳からの子供たちは、有力な新規参入者だ。特に2005年以降に生まれた子供たちは、ヴァーチャル世界と現実世界の垣根が低い。親と学校は、今後さらに早い時期から子供たちにお金の使い方を教育しなくてはならないだろう。

数年前に、西フィヨルドに住んでいる知人が中国からカーテンを輸入したと聞いたときには、少し驚いた。そんなものもオンラインで買うのだな、というのが正直な感想だった。しかししっかり話を聞くと、わざわざレイキャヴィークまで出て行って買うよりは、例え関税がかかっても中国からの輸入の方が料金が安いそうだ。しかも、自宅まで配送してくれるし、カーテンの種類もレイキャヴィークとは比べものにならないほど多いという話だった。

ハトルグリムス教会に続く、坂のある通りSkólavörðustígur (スコーラ ヴォルズ スティーグル)

そんなアイスランド人たちの消費意欲が頂点に達するのが、クリスマスの前後にあたる。この時期の買い物は、何を買っても「クリスマスだから」という大義名分がある。しかもここ数年は、ブラック・フライデイやサイバー・マンデイと呼ばれるアメリカのセールス イベントもアイスランドに上陸し、クリスマス商戦の前哨戦になっている有様だ。つまり11月下旬ごろから、アイスランド人たちは今年はどんなクリスマスプレゼントを家族や友人たちに送ろうか、と考えて用意し始めるということだ。

クリスマスがイコール=プレゼントという発想は、戦前アイスランドがまだ貧しい国だった頃、何かを新調できたのはクリスマスのような特別な祝日に限られていたことに起因する。その当時に比べれば、今のアイスランドは毎日がクリスマスのようなものだが、綿々と続いてきた伝統にアイスランド人たちが疑念を抱くはずはない。しかもそれに小売りが乗じて、この時期に両者の利害が最大限に一致する。買ったプレゼントは期限付きで交換ができるという条件も、消費者が買い物に躊躇しないことに一役買っている。

面白いことに、幼稚園や小学校に通う年齢の子供がいる家庭は、さらなる消費活動を強いられる。なぜなら、子供たちのクリスマスは12月12日から始まるからだ。アイスランドにはサンタクロースがなんと13人もいて、これが山から一日に一人ずつ降りてきては、子供たちに何か小さなプレゼントを与えることになっている。24日が本命であっても、サンタクロース=親は12日分、子供たちに何かを用意しておく必要がある。このイベントを決して見くびってはいけない。この時期の子供たちはお互いに、朝起きたときに窓際に何が置かれていたか、その情報交換をするからだ。「誰誰ちゃんは、何々をもらった」という会話の結果が、帰宅後事細かに親に報告されることは言うまでもない。

アイスランド作家の作品が多く置かれたSkólavörðustígurのギャラリー

さて、話を前出の記事に戻そう。確かに記者の言うように、買ったものを眠らせておくよりは、活用したほうがいいことは確かだ。無駄遣いをしないに越したことはないし、ゴミを増やして環境破壊することは避けたい。実際に買ったモノよりも、買う過程を楽しんでいる消費者が多いという指摘も正しいと思う。女性たちがウインドウ ショッピングに心をときめかし、オンラインの買い物かごに好きな商品を入れて満足するのは、脳に流れるドパーミンが消費者を幸せな気持ちにしてくれるからだ。この記事では、消費者たちが感じる幸福感は悪者扱いされていない。

記事に出てくる2つのアクティビティ、鮭釣りとショッピングは、もちろん目的自体が違う。鮭釣りはアイスランドでは「スポーツ」と言われるように、釣った魚の数や大きさ、または重さを競い合うことを主眼にしている。よって、記録をすればそれで済む話だ。釣った鮭が傷ついていない限り、食べない魚は川に返すのもまっとうに思える。それに比べると、ショッピングは基本的に比較ではなく、個人の充足感がメインである。例えばコレクターの価値観を、万人と共有することは難しい。集めたものを保管して、使わなくても見て楽しむ、というのはまさにコレクターの真髄のように思える。

よって、消費者自身の生活がその行為によって経済的に破綻していない限り、また購買したものに消費者が何かの意味を見出している場合、それらは最低限の生活を保障するような根源的な必要性はないにせよ、無駄な消費活動と決めつけるのは難しい。これは消費者の立場から見たときの視点だ。ただその消費活動が、地球全体の規模で考察したときに、発展途上国での搾取や人権の蹂躙、またはゴミや環境問題を引き起こすとすれば、そんな消費活動は控えるべきなのは確かだ。この見極めはどのようにすればいいのだろう。消費者として賢く正しい振舞いとは何だろうか。

それにはまず、価値観というものが社会の産物に過ぎないのを知ることから始まるように思う。モノを提供する企業は、モノの価値に関する神話を創り上げ、それをマーケティングという戦法でわたしたちに信じ込ませようする。これがいい、あれがいい、と言っているのは、わたしたち自身ではなく、後付けされた外からの価値観であることを自覚することは大切だ。消費者の行動は、消費者側だけから導かれたものではなく、企業の思惑が大きく関わっている。

次に知る必要があるのは、企業は不特定多数に、際限なくモノを売りたがっているということだ。そのために、いろいろな方法で消費者を説得しようとする。資本主義社会が、モノの売り買いで成り立っている以上、またその世界に身を置いている以上、善悪や好き嫌いで判断してはいけない。売り手の立場に立ち、どのようにして買い手を絡めとろうとするのか知ろうとすれば、その戦法を見破ることができるかもしれない。また、買いたいと思っているのが本当に自分自身か、または企業にそう唆かされているだけなのか、問いかけるのも大切だ。

消費者としての責任とは何かを考えてみるのもいいと思う。買いたいモノを作っている企業が、どのように生産をしているか調べるのも悪くはない。誰かをどこかで泣かせているような会社の商品は、どんなに優秀なものでも買うべきではないのだろう。情報を公開しているかどうかも大切なポイントだと思う。モノの対価を値段だけで決めるのではなく、企業が何をミッションにしているか、その使命感に興味を持つのもいいだろう。かけ声だけでなく、実際にそのミッションを遂行していることも肝心だが。

そして最後に、わたしたち人間の脳は騙されやすく、流されやすいものであることを自覚しよう。禁欲に生きようとすれば、必ずいつか無理が来る。わたしたち誰もが高揚感を味わいたいし、幸せになりたいと願っている。これも、善悪で判断してはいけない。わたしたちは、消費をするときに幸福感を感じることはあるが、それは長続きしないものだと知っているだけでいいと思う。また消費に快感を感じることを恥じる必要もない。すべては、自分の中のバランスと折り合いだ。

レイキャヴィークの目抜き通りLaugavegur (ロイガ ヴェーグル/温泉通り)を歩く人たち

消費欲求を否定せず、消費には幸福感を生む効用があるのだと、筆者はまず人間の本質を受け止めた。記事ではその後、消費者がどのような行動を起こすべきか、読者に問いている。必要でなければ、必要な人に回す、使ってもらう。確かに消費欲求自体を「手放す」ことができれば、それに越したことはないが、必要のないものを自分の手元から物理的に無くすことが、最終的には不必要な消費を手放す道に続くのかもしれない。

日本でも「断捨離」が流行してしばらく経つが、アイスランドの断捨離は、鮭を川に返してやるような、何気に無理のない、優しい行為に例えられている。モノを欲しがる欲求を打ち消すことが不可能ならば、それに寄り添いながら自分にできる善をしようと考えるのは、肩の力が抜けた生き方だと思う。この頑張り過ぎないところが、わたしにはとてもアイスランド的に思える。





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