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【読書】2024年7月に読んだ本(前編)

巨大地震注意や台風に対する心配を最大限重く捉えた結果、8月連休に予定していた泊まり旅行を2件キャンセルしました。物足りない夏休みになりました。
7月に読んでいた本を前後編2回に分けて紹介します。


野田智義、金井壽宏『リーダーシップの旅 ─見えないものを見る』(光文社新書)

会社の研修の課題図書。レポート提出を求められたので6,500字の読書感想文を提出しました。

著者らは自らのスタンスを「リーダーシップの身のつけ方について、あれこれ読者の皆さんに話すつもりもなければ、その立場にもない」(p26)、「我々の役割は、リーダーがどんな行動をした時にフォロワーが喜んでついてくるかを分析し、教材やヒントの形で提供すること」(p36)と説明しています。本書はそのヒントの一形態として「旅」が選定されています。なぜ「旅」なのか。それは「私たち一人一人が自分の生き方、仰々しく言えば、生き様を問う」のに適していて、「自らの人生にとってリーダーシップがどんな意味をもつのか考える」のに適しているからだそうです(p12)。互いに関連のない観光地を一つずつ巡るように、著者らは交互に思い思いのリーダーシップエピソードを語ります。そのとりとめの無さを「旅」と表現しているのかもしれません。

行動の理解ないし記述の仕方しだいで、当の行動がリーダーシップ概念と結びついたり結びつかなかったりするために、「野田さんの言う通り、すべてのリーダーシップには後付けの要素がある」(p47)。行動の記述の仕方によってリーダーシップ概念との結びつきが変化する様子が、断章のように列挙されています。本書では特に言及されていませんが、これは「概念の論理文法」からリーダーシップを説明する試みなのかもしれません。

一つだけ本書で扱っている例を示すと、p57あたりの張麗玲氏の事例では、ドキュメンタリー撮影の苦労話や協力者の振舞いが、「ドキュメンタリー番組を作りたいという張さんの当初の夢は、日本と中国の橋渡しになりたいという夢に消化されていき、張さんを応援する人々の夢と重なっていった」(p61)と記述を変え、「リーダーシップの共振現象」(p59)が現出した場面として説明されています。

本書はリーダーシップをアカウンタブル(観察可能で報告可能)な現象として記述するために、行為の記述の仕方/周囲の反応、のペアを多数並べています。リーダーシップは技能や関係性ではなく現象である、ということだと理解しました。


ポール・B・トンプソン(太田和彦訳)『食農倫理学の長い旅 ─〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』(勁草書房)

くしくも本書も「旅」の本でした。
大変読みにくい本でとても苦労しました。内容の難しさではなく構成の理解し難さを感じます。書かれていることは難渋ではないのですが、著者の意見と疑問文と従来の学説と他の専門家への反駁とが一段落の中になんとなく詰め込まれていて、読んでいる一文が誰の意見なのか分からなくなってしまう瞬間が多かったです。訳者はすらすら読める本ではないと注意を促していて、本書で貫かれている著者の基本的立場をp333の訳注で解説し、各章の構成をp343の訳者解説で説明して、見取り図を与えようと工夫されています。

このような分かりにくさを採用している理由を著者は「私の方法について━━探求と学習サイクル」という節で説明しています(p18)。著者によれば、20世紀の道徳哲学は道徳的正当性に関する普遍的基準のモデル化に執心するあまり、デューイの「拡散→同化→収束→適応」の探求四段階で言えば「同化(仮説形成)」における過ちを避けることに集中してきたのだそうです。著者は、何が正しい思考で何が正しい行動なのかは、私たちが拡散、同化、収束、適応のどの学習スタイルに通じているかによって変化すると説きます。そして、社会的公正を達成するためにはどの学習スタイルの者も排除されてはならない、「収束」段階で行動計画を定めるまえに世間的に過小評価されてきた社会的懸念を認識しなければならない、それが包含的(インクルーシブ)なやり方ってやつだ、と述べます(p23あたり)。こうして、倫理学から食を考えるのではなく、食の幅広い哲学的意義から倫理そのものを理解するために、前世紀道徳哲学の反省から、著者は一段落の中で「拡散→同化→収束→適応」の探求四段階をぐるぐると回る記述を採用したのでした。
(私はデューイの「探求inquiry」について『プラグマティズムを学ぶ人のために』(加賀裕郎、高頭直樹、新茂之 編、世界思想社)p68程度の理解しかありません。誤りがありましたらご指摘ください。)

なお、p23~24の箇所(序章の最後の段落)は、各文がそれぞれ次の接続副詞で始まります;「しかしながら→例えば→また→そして→さらに→とはいえ→それよりも」。文同士がどのような関係にあるのか明示的になって親切だとは思うのですが、読解を試みるのはハードな経験でした。

さて、上述のような意義でもって本書が構成されているわけですから、読者たる私たちは本書から「これが食農倫理学だ」と正解を受け取るわけにはまいりません。食農倫理学の仕事は、「健康と身体の完全性にとってだけでなく、伝統や慣習、そして社会的連帯の形態にもリスクが存在する」ことを指摘し、「倫理的領域と美的領域と文化的領域とを分ける線を引くこと」にあります(p65)。本書に記された素材をもとに、私たちそれぞれが色んな人と話し合ってみる必要があります。「食農倫理学の注目すべき特徴の一つは、学術分野を横断して、驚くほど複雑かつ網羅的にテーマを展開できることである」(p27)。

Netflixのオリジナルドキュメンタリーに『ヒトは食べ物でできている━"双子"で食を検証』というものがありますが、著者は反対に、「あなたはあなたが食べるものでは決まらない」(第一章タイトル)と述べます。正確に言うと、決まる/決まらないではなく、その根底にある観点、すなわち、全ての者は各々の規範と価値観をアイデンティティとして実現するために自分の意志で食生活を選択している、という実践観を拒否します(p52~55)。今日のフードシステムは、遥か遠い原産国を搾取し遥か未来の後代の選択肢を妨害しているため、他人の「嗜好やリスクに関する信念に従って食生活をコントロールする権利」(p57)を侵害していて、従って倫理上の問題を抱えているのです。著者は「あなたはあなたが食べるものでは決まらない」と述べることで、多様性と寛容の実践(p63)をより取り入れようと呼びかけているのだと思います。

本書には多くの話題が含まれ、ベジタリアンや貧困零細小作農や肥満問題や遺伝子組み換え作物などが扱われていますが、特に興味深く読んだのは6章「フードシステムと環境への影響━地場産の誘惑」でした。ここで著者は、農業における資源充足性(resource sufficiency)の立場と機能的統合性(functional integrity)の立場の両方から持続可能性について論じ、後者こそが、自然の中にある価値(頑健性と回復力)を理解する私たちの能力の一つの源だと断じ(p218)、同時に、私たちが組み込まれているフードシステムへの内省を促すものだと論じます(p227)。前者も倫理的議論の対象にはなるが他の産業分野にも見られる分配的不平等問題だとして、専ら食農倫理学が扱う課題から除外します。

本書の最大の目的は、食が関わる「厄介な問題」の認識に資する分析をサポートする理論的枠組みを提供するという点にあるため、6章のこの分析は本書の目的を一定程度果たすものだと思いました。


後編はまたのちほど。


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