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だれも知らないスラム街の歴史①(1900年〜1960年)【ファベーラ滞在記】

今週もこんにちは。なんだか、一週間が矢のようにすぎますね。新年度だからでしょうか。

今日は、ブラジルのスラム街の歴史をご紹介します。ニッチですが世界史や南米なんかに興味のある方はぜひ。

1. このシリーズについて

このマガジンは、ファベーラ(ブラジルのスラム街)の滞在記です。スラム街と聞くとこわい場所のようですが、そうではなく、普通の人が普通に暮らすまち。その面白さを毎回一話完結でご紹介します。

▼▼前回の記事▼▼

2. カヌード戦争とファベーラの木(1900~1930)

ファベーラ(スラム街)という言葉にはネガティヴな響きがあります。しばしば連想されるのは「みじめ、ドラッグ、貧困」といった状況ですが、どのようにこのスラム街は生まれたのでしょうか。

ひとつ言えるのは、ファベーラという存在は結局のところ、外部の視線が作り出したものであり、そのイメージはブラジルという国を取り巻く社会・経済的状況によって大きく変化してきた、ということです。

その歴史は、北東部のバイーア州であった‘Guerra de Canudos’(カヌードス戦争、1895-1896)に遡ります。ブラジルは1888年に奴隷解放、1889年に立憲君主制から共和制に移行しており、大きな変革の最中でした。

ちなみにブラジルは1822年に独立していたとはいえ、立憲君主制時代はポルトガルの皇太子が皇帝だったので、国家として完全な自治を得たのはこの頃から。中央集権体制から地方分権にも移行していきました。

カヌードス戦争自体は、貧困層の入植者(アントニオ・コンセリェイロという宗教指導者が率いた)がバイーアにカヌードスという自分たちの街を建設したことから始まった、政府軍との争いです。ブラジル史上最も残虐な虐殺が行われ、政府軍により25,000人や30,000人が犠牲になりました。

ちなみに、国家の黎明期だった20世紀初頭は、他にもブラジル最大の内戦と呼ばれたコンテスタード戦争(1912-1916)など、政府と自分たちの居場所を求めた住民たちの間で衝突が数多く起こっています。

この戦争の後、バイーアに派遣された政府軍の兵士たちが、カヌードス戦争の給与未払いに抗議しました。兵士たちはリオデジャネイロのある丘、ファベーラの低木の茂みに住居を構えたのです。ファベーラというのは植物の名前だったのですね。

ファベーラの木は学名Cnidoscolus phyllancatusといって、チャヤという木の仲間だそうです。チャヤはトウダイグサ科なので、日本で知られているものだと、ポインセチアやハツユキソウの仲間です。

結果的に、政府は給与を最後まで支払わなかったので、兵士たちは劣悪な生活環境の中、その丘に住み続けることになり、貧しい人たちが住むこうした場所自体がファベーラと呼ばれるようになっていったそうです。

3. ファベーラの「近代化」(1930~1960)

では、なぜ兵士たちの住んだ場所がこうしたネガティヴな意味を持つようになったのでしょうか。

上の記事では、1900年〜1940年頃にかけて、ファベーラに入った医師やジャーナリストたちが、都市と対比して、ファベーラを「遅れた、不潔で、過剰に性的な」空間だと描写したのが原因だと書かれています。

この頃はブラジルという国自体大きな混乱期にありました。1930〜1945年と1951年〜1954年にかけてブラジルの大統領を務めたジェトゥリオ・ドルネレス・バルガスは独裁政権を通して巨大石油会社Petrobrasの国有化を行い、ナショナリズムを称揚しました。ブラジルは第二次世界大戦にも連合国側で参戦しています。

こうした富国強兵の文脈においては、貧しい人々はしばしば敵視に近い扱いを受けます。1940年〜1960年ごろにかけては、ファベーラの存在そのものが都市の発展を妨げるものだと見られるようになっていきました。

リオデジャネイロだけを見ても、1950年時点でファベーラが58、約17万人が住んでいたと言われています。この時期になると、ブラジルで都市開発が盛んになり、「不潔で退廃的な」ファベーラに「清潔で近代的な」設備を提供しようという動きが政治的にも盛んになっていきました。

その一例が、リオデジャネイロ州の市長を1937~1945年に務めたHenrique DodsworthによるProletariat Parksという都市計画です。

彼はファベーラの住民を市が用意したProletariat Parksという団地に強制移転しました。ファベーラの人々を公衆道徳に対する脅威とみなしていた彼は住民を「管理」しようと、住民にIDカードを付与したり、団地のゲートを10時に閉めて門限を決めたりしたそうです。

当然ながらこうしたプロジェクトには膨大な維持費がかかるので、途中でストップしましたが、以後は学術的な研究やNGOによる援助の対象となり、ネガティヴなステレオタイプ化がいっそう進んでいったのでした。

色々調べていたら量が多くなってしまったので、今回はここまで。続きは次回かきます。

読んでくださってありがとうございました!

(つづく)

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