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【おすすめ本】暮らしは芸術でできている(鶴見俊輔/限界芸術論)

今週もこんにちは。一昨日あたりから、急に寒くなりましたね。短い秋という感じです。芸術の秋(これも不思議な言葉だな)ではないけれど、本日取り上げるのは鶴見俊輔の「限界芸術論」

限界といっても、芸術はもう駄目だという意味では(それだと「芸術限界論」ですね)なく、生活のなかに「芸術」を見つけてみよう、というこころみです。

▼▼今週の本▼▼

まずは冒頭から。

芸術とは、たのしい記号と言ってよいだろう。それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術なのである。もう少しむずかしく言いかえるならば、芸術とは、美的経験を直接的につくり出す記号であると言えよう。

鶴見俊輔. 限界芸術論. ちくま学芸文庫, 1999(1991). p.10.

これだけでも引き込まれますね。この美的経験として、鶴見さんは町並を見ることや家族の話を例に挙げています。そんなのでいいの? という感じ。でも、僕らは美術館に行くときだけ「芸術に触れる」わけではない。

従来の芸術の捉え方(詳細は省きますが、いわゆる純粋芸術と大衆芸術の二元論)はむしろ狭すぎる、と鶴見さんは言います。

(純粋芸術と大衆芸術よりも)さらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう。(…)限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。

同上, p.14-15.

なぜ、限界芸術が必要なのか。他稿ですが、以下。

明治以後の日本の近代文化は、文化的事業にかかりきりのもの(文化業者)と、生活にかかりきりのもの(実践家)とが鋭く切りはなされている状態を特徴としている。

同上, p.435.

芸術の定義は狭すぎる。このギャップを橋渡しするのが、文化業者と実践家の「ひろい意味での協力」、即ち「限界芸術」なのだと、鶴見さんはいいます。例として挙げられているのが、子供のおもちゃや、うつわなどの日用品(民藝)です。

鶴見さんはさらに、限界芸術が二つの意味で芸術の原点であると語っています。一つは、芸術というジャンルそのものが、生活から発展して生まれたものだから。もう一つは、私たちひとりひとりが、おもちゃのような身近にある限界芸術から芸術を知っていくからです。

それは、一般人である私たちが「どう芸術に参加するか?*」「どんなふうに芸術を作っていけるか?」という問いにもつながるでしょう。暮らしは芸術でできている。芸術をもっと堅苦しくなく自由に考えたい方におすすめの一冊です。

(おわり)

*この論文が参考になります

▼▼前回の本▼▼


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