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果てなき森にて深夜、海を拾う。


 足が沈みこんで動きが取れなくなったのは一瞬前のことかもしれないし、もう昨日のことかもしれない。既に何年もこうしているのかもしれないし、もしかすると自分はこの泥水の中で生まれてこれまでの人生をここで過ごしてきたのかもしれない。
 いや、ここで生まれた、ということはないだろう。そうでなければ、今このざらざらどろどろした泥水が目を塞ぎ鼻を塞ぎ耳を塞ぎ口の中に侵入してきたことに不快感を覚えるはずがないではないか。
 どうしてこう、人間の体には穴が多いのだろう。おかげで液状の物質は自在に体内に入り込み、人は簡単に呼吸機能を奪われてしまう。やはり自分は水中で生きていくよう創造された生き物ではないらしい。その証拠に、今この瞬間に呼吸ができないという事実が自分を苦しめている。
 呼吸ができなくて苦しい。そう思い始めて、どれだけの時が流れたのだろう。一分?一時間?三日くらいかもしれない。さすがに陸地で生きていくよう創造された人間が三日も呼吸を奪われて意識があるわけがない。では自分は人間ではないのか。以前、自分はヒトという生物である、と思い込んで生活していた気がする。しかし今は良く思い出せない。
 もし自分が地上で呼吸をしながら生きていくよう設計された体の構造を持っているというのが事実で、今その呼吸を奪われていて苦しいというのなら、つまり自分は遅かれ早かれ死ぬということなのか。
 友人が一度、彼の祖母が「死んだら地獄に行きたい。天国は晴れ渡って風が吹いて寒そうだが、地獄は悪魔たちが火を焚いて待っていてくれる。悪魔たちはきっと、陽気な奴らだよ」と話していたと聞かせてくれた。友人?一体誰だったか。自分に果たして「友人」などと呼べる人はいただろうか。しかしその友人なしに、その祖母の話も存在しない。では自分の祖母の話だったか?果たして自分に家族などいただろうか?祖母というのは自分の親の母親、ということだろう?そんな存在が、自分にいただろうか。
 自分は果たして、人間から生まれた人間、なのだろうか?
 もう考えるのも、面倒くさくなってきた。ただ、不透明な水の中で自分の体が回転しているのだけが感じられる。それが自分の意思による動きではないことは分かっている。ああ、きっと自分は「溺れた」という言葉を使うのが悔しいのだ。人というのは、どこまでも意地を張りたいものなのだな。
 何となく、今の自分の顔は笑っているのではないか、という気がした。


「あんたはどう思う?あの反応は、話に乗ったってことなのか。あんた、あの画家とは長い付き合いなんだろう?」
 深夜の森の中の雪道を一歩一歩踏みしめるように歩きながら、ラーヂャは隣を歩く案内人に話しかけた。このハンガリー東部の片田舎の深い森の中に住む贋作作家の話は、ラーヂャが第二の人生を歩み始める前、”まともな人生”を送っていた頃から聞いていた。原画の色をいかに忠実に再現するかに人生を賭けていた画集の印刷技師だったその頃のラーヂャにとっては、そういった画家は目の上のたん瘤のような存在だった。しかし、今は違う。数年前に第一の人生を捨てて以来、自身のための偽造パスポート作りから始まった「偽造屋稼業」を拡大するべく、信用のおける技術者を見つけては声をかけて仲間を増やしている。
「あいつ、すごい偏屈だからなあ。旦那も驚いたんじゃないですか、まだあいつ、けっこう若いでしょ。ブダペストで美大生だった頃にここにアトリエを買ってね、大学を出る前からここで贋作業を始めたんでさ。今や知る人ぞ知る贋作作家。でも旦那の取引条件、これまで持ち込まれた中で一番いいんじゃないですかね、悪い顔してなかった」
 案内人の返事を聞きながら、ラーヂャは森の右手のほうへ目をやった。夜中の暗さに目は慣れたが、森は果てしなくどこまでも広がっているように見えた。数センチメートルほど積もった雪の白さも手伝って、明かりがないことも苦にならない。しかし地元の人間の案内なしには踏み込めない地であることには変わりはなかった。この辺りは小さな湖や沼地が多いと言う。足を取られたら最後、水に飲み込まれ人生を終えるしかない底なし沼もいくつか点在し、その位置を把握しているのはやはり土地の人間だけだ。
 ラーヂャは案内人のほうへ視線を戻そうとして顔を動かしたが、視界の隅に何かが映った気がして再び森の中に目を落とし、立ち止まった。案内人も驚いたようにラーヂャを見て歩みを止めた。
「おい、あそこ誰かいるだろ」
 そう言うラーヂャに、案内人は
「きっと、動物でしょう」
とだけ返した。
「いや、あれは、人間だ」
「……だから、何です?あの位置に何があるのか、分かってます?この辺りに危険な沼があるって話はしたはずですね?こんな真冬にそんなところに人間が浸かっている。事故か他殺か自殺か。自殺でしょうね、きっと。放っといてあげましょうよ、死にたい奴は」
 ラーヂャはまるで案内人の返事が聞こえていないかのように視線を動かさず、つぶやくように
「まだ、生きてる」
と言った。
「どうでしょう?今まさに心臓が止まろうとしている最中かもしれませんよ。旦那、そういう自分の益にならない事には絶対関わりたくなさそうなタイプなのに。意外ですね。……もう、行きませんか?」
「俺は、自分の興味あることしかやらないんだ。つまり興味が湧いたら、やるんだ」
 そう言うとラーヂャは背負っていた荷物を下ろし、足元の雪の下に長い枝か何かが転がっていないかとまさぐった。ちょうど良さそうなものが見つからないのを見て取ると、ラーヂャはベルトに装着していたナイフを抜き取り「ちょいと失礼」とまるで森に謝るようにつぶやいて、すぐ側の木の枝に刃を立てた。
 半分は体重をかけて折り取るようにして枝を手に入れると、ラーヂャは
「あんたはここにいな。俺が足を踏み入れられるぎりぎりのところまで行ったら教えてくれ」
と案内人に言い残して水に浮かぶ何者かのほうへ歩き出した。
 沼というのは凍らないものなのか、と思いながらラーヂャは歩を進めた。見えているのは人の背中の上部らしき体の一部だけだ。「まだ生きている」と言ってはみたが、確信はなかった。単なる勘だとしか言いようがない。既に死んでいるのかもしれないが、生き返るかもしれない。そんな気がした。
 沼の中の人体は緩やかに旋回しているように見えた。別の位置で溺れたのがここまで流れ着いたところなのかもしれない。うまいことこちらまで流れてきてくれればいいがな、と思ったところで後ろから案内人が
「旦那、ストップ!それ以上進んじゃいけません」
と叫ぶのが聞こえた。ふと足元に目を落とすと、ふくらはぎの半分くらいまで緩んだ地面に沈み込んでいるのが目に入った。
 ラーヂャは再び前方へ視線を戻した。二メートルもない、これは届く、そう思いながら沼の中の背に手の中の枝を伸ばした。太くはないが頑丈な枝で、水中の人物も痩せているからか、ラーヂャが泥水に浮かぶ背の向こう側に枝を回して引き寄せると、最初の数秒は抵抗を感じたものの、体はゆっくりとラーヂャのほうへ流れてきた。
 足元まで手繰り寄せた体を見下ろし、ラーヂャは「ここからが勝負だな」と心の中で独り言ち、枝を手放すと足元の体の腰の辺りに両手を回し、ひと息に引き上げ、自身も後方へ歩を進めながらより土の固まった地面の上へ腕の中の体を横たえた。
 体は痩せていたが、思いのほか長かった。人の背格好を形容するのに「長い」とはおかしな表現のような気がしたが、横たわる体を前にしてはそれ以外の言葉が浮かばなかった。立ち上がればラーヂャよりも背が高いように思われた。
 地面に引き上げた状態では、まだ背面しか見えない。ラーヂャは引き上げた体が一糸纏わぬ姿であるにもかかわらず、男なのか女なのか判断が付かなかった。ラーヂャは左手の手袋を外し、足元の人体の首に手を当て脈を確かめてみようとしたが、外気に晒された手は一気にかじかんでしまい、何の判断も下そうとはしなかった。ラーヂャが言うことを聞かない左手に舌打ちをしようとした瞬間、横たわる体が微かに、しかし自発的にぴくりと動いた気がした。
 こんな状況での救命処置の知識など、ラーヂャは身に付けていなかった。とにかく相手は生きていて、異常に長い時間水に浸かっていたのだから、水を吐かせるのが最初にすべきことなのだろう。そう思い、ラーヂャは少々乱暴な気はしたが、体の肋骨の下あたりを右手で抱え上げ、左手でみぞおちを思い切り押してみた。
 ごぼっ、という音を立てて、体は大量の、ラーヂャが想像していた量の何倍もの泥水を吐き出し、それから咳き込んだ。つまり、呼吸をしているんだ。ラーヂャはそう思うと同時に体を肩に担ぎ、案内人の待つ位置に戻った。体は重かったが、ラーヂャの歩みはほとんど普段の速度と変わらなかった。
 案内人は青い顔をして立ち尽くしていた。もしかするとこの辺りでは入水自殺は珍しくないのかもしれないな、どうしてそこまでして助けるんだと思っているのかもしれない、とラーヂャは案内人の顔を見て思った。ラーヂャ自身も、何が自分をこのような行動に駆り立てたのか、分からなかった。
 ラーヂャは肩の上の体を地面に降ろしながら
「何を突っ立ってるんだ。助けを呼べ。この先に民家があるだろ。来る途中で見たのを覚えてるぞ。担架はないかもしれんが、それに代わるものはあるだろ。言うだけ払う、と伝えろ。あんたにも約束した分の倍はやる」
と案内人に向かってまくしたてた。
 案内人は一瞬何を言われたのか分からなかったようだったが、次の瞬間弾かれるようにラーヂャの示した方向へ走り出した。
 ラーヂャは体の傍に跪き、「今は息があってもこのまま凍死されたらたまらん」と思いながら自分の首からマフラーをほどき、泥だらけの顔と体を素早く適当に拭くとダウンジャケットを脱いで裸の体を包んだ。ジャケットを体の下に回そうとして体を転がし、体を表から見た。それでも、ラーヂャはこの体が男のものなのか女のものなのか、分からなかった。と同時に、その分別はさして重要ではないような気がした。
 案内人がいなくなってやっと、ラーヂャはこの人物にどんな言葉で話しかけたらいいのか、と困惑した。この土地では第一外国語として英語は学習されていないらしく、通じる人間は少ない。ラーヂャのハンガリー語に関する知識は面白半分に覚えてみた百単語ほどだけだ。
 ラーヂャは荷物の中に入れてあった水筒の湯でハンカチを濡らし、横たわる体の肩から上を膝に乗せるように抱き上げ、もう一度顔と耳の中を丁寧に拭いてやりながら
「俺の声が聞こえるか?何語なら分かるんだ?Deutsch? Français? Italiano? Česky? Slovensky?」
と話しかけた。
 ラーヂャの手の中の顔は目を瞑ったまま少し口の端を上げ
「Bude vám zima, vezměte si bundu zpátky. Jsem v pohodě.」
とか細く、しかし清らかな響きの声で言った。
 ラーヂャは腕の中の人物に意識があることに、まず安堵した。
「なんだ、チェコ語を話すのか。まだ若そうだな。なんでこんなところを死に場所に選ぶんだ」
「場所を選んだつもりも、死を選んだつもりもありません」
「じゃ、誰かに落とされたのか?」
「そんな覚えもありません」
 ラーヂャは短いため息をついた後
「変な奴だな」
とつぶやいた。
「そうなのですか?自分ではよく分かりません」
「俺は変な奴が好きだ。だから、気にするな。お前、名前は何だ?」
「分かりません。覚えていません」
 言いたくないのか、記憶喪失なのか、とラーヂャが考え始めたのとほぼ同時に、遠くで花火が打ち上げられる音がした。腕時計を見やると、ちょうど午前0時を指し示していた。
 こんな田舎でも年明けの花火を上げる奴がいるのか、と苦笑しながらラーヂャは
「おい、年が明けたぞ。2000年の始まりだ。分かるか、西暦2000年って、何のことか」
と再び話しかけた。
「ふふ、ナザレのイエスが生まれて二千年が経ったということですね」
 ラーヂャの腕の中の存在は楽しそうな声でそう言うと、少し目を開いた。ラーヂャはその目を覗き込みながら
「実際は数年ずれてるらしいがな。いい加減なもんさ、人間の決め事なんて」
と言って笑った。
 それからラーヂャは
「海のような、目の色をしているな」
と言った。
「冗談でしょう。自分の目の色くらいは、覚えていますよ」
「海は青いもんだって言ってるうちは、海がいろいろな顔を持ってるってことを知らないってことだ。お前のその薄い緑の目は、海を思わせる」
 そう言ってラーヂャは暫く考えるような顔をして、また口を開いた。
「どうだ、自分の名前が思い出せないなら、『海』って名乗ってみるっていうのは。何語がいいだろうな。ハンガリー語で海って、なんて言うんだったっけな……お前、言うなよ、自分で思い出したいんだからな」
 ラーヂャの腕の中の存在は、ラーヂャを楽しそうに観察しながら
「いいでしょう。あなたがハンガリー語で海という言葉を思い出せた瞬間から、私は海と名乗ります」
と言って微笑んだ。
 ラーヂャが頭の中でハンガリー語で知っている百単語を復習し始めてちょうど「海」に到達した頃、案内人が数人の助っ人を引き連れて走ってくるのが見えた。



『一期一会』22 x 30 cm アクリル
絵のタイトルを日本語で付けるのは極たまにしかしないのだが、この絵はこのタイトル以外思いつかなかった。



【あとがき】
……ということで、『その名はカフカ』番外編でしたー。
冒頭に「○○○○年どこどこ」って書くと、すぐ「あ、カフカだな」ってばれちゃうと思って、わざと入れませんでした。笑

少なくとも第二部Kontrapunktを読み切っていないと「?」な内容だったと思いますが。
お気に入りキャラ二名の出会いの話を書いてみました。
果たしてこれが面白かった読者の方は、いらっしゃるのだろうか……。

本記事で「『その名はカフカ』って、何?」と思われた方は、こちらからどうぞ↓

【追記】
『その名はカフカ』第一部と第二部は紙の本でも読めます。
詳しくはこちら↓


豆氏のスイーツ探求の旅費に当てます。