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【読書ノート】ボエティウス『哲学のなぐさめ』


およそ1500年前のイタリア。
国の宰相まで務めた男が、政敵におとしいれられ、反逆罪で告発され、投獄された。
獄中の男には、人生についてさまざまな思いが浮かんでくる。

気まぐれな運…
幸福とはなにか、どうすれば手に入るか…
善なる神のもとで、どうして心悪しき者が権勢をふるい、善良な者(である私)が報われないのか…
神が摂理によって世界を差配しているなら、そもそも人間(である私)には意志する自由があったのか…

これらの疑問に応えるべく、1冊の本を男は獄中で書き上げる。
まるで自分の人生を評価して、その意味を確認するかのように。
その後、男は拷問のすえ、処刑されることとなる。

男の名は、ボエティウス。
彼が自分の人生を賭け金にして書き上げた本は、後に『哲学のなぐさめ』と呼ばれ、西欧において長く読みつがれることとなる。
残存する写本の数は400を越え、聖書に次ぐ量が流通。
文人だけでなく幅広い人々に愛読され、イングランドのアルフレッド大王やエリザベス1世は自身で翻訳をおこなうほどであった。


新訳について

ボエティウス『哲学のなぐさめ』、約半世紀ぶりの新訳が刊行されました!!

『哲学のなぐさめ』ボエティウス[著] 松﨑一平[訳] 京都大学学術出版会 ISBN978-4-8140-0424-9

既訳について

筑摩書房の世界文学全集に収録された1966年の翻訳があるらしいのですが、古本でしか入手できず。(不所持・未見)

新刊で流通して入手しやすかったのは、1938年の岩波文庫版。(2011年18刷所持)
古いだけでなく、表記も第1刷が出版されたときのまま(旧字なども改められず)重版され続けて、読みにくかったため、新訳が待たれる状況でした。

新訳の印象

訳注が充実している印象を受けました。
訳注にあてられている分量は、平均すれば、見開き左側のページの半分くらいになるかと思います。

訳注の半分くらいは、他の作者の著述や韻文との並行関係や影響についてで、読む際には特に必要ない玄人向けのものです。

ただ、本書に何度も登場する詩歌についての訳注解説はとても有用でした。
翻訳では表現が難しい詩歌の韻律(リズム)について言及して、破格なども含めて韻律の効果を説明。詩歌が文字以外にもっているニュアンスを少しでも伝えようとしてくれています。

強いて言うなら、大手出版社の学術文庫など、より多くの人の目にとまりやすく入手が容易な形で出版されなかったのが残念なくらいでしょうか。

概要

第1巻

獄中に囚われて悲嘆にくれる(作中登場人物としての)「ボエティウス」の前に、擬人化された哲学(の女神)が現れる。

「ボエティウス」は、不当な身の上を嘆いていた次第を述べる。
世に出て立派に振る舞って来たが、心悪しき者におとしいれられ、投獄された、と。

これを聞いた哲学の女神は、ある「病気」に「ボエティウス」がかかっているという。

第2巻

哲学の女神は、「病気」を治療する前に、まず悲嘆に対する処置を取るとして、運について検討する。

「ボエティウス」は、運の急変・逆境を嘆いているが、
いま人生という舞台にあがったわけではないことを思い出すべき。
もともと得ていた人生の幸い自体、その運が与えてくれたものである。

そして、運がもたらした幸いは、そもそも自分自身によるものではない以上、取り去られて嘆いたり不平を言うのはお門違い。
なぜなら、変転することは運の本性なのだから。

さらに、運がもたらしたものは、幸福を保障するものでもなく、人々を善くするものでもない。
運は順境によって人々の目を欺くが、逆境によって真に善いものへと人々を促す。

第3巻

運がもたらすものが幸福や善ではないなら、真に善いものとは何か。

財貨、顕職、権力、栄光、快楽…
世間でもてはやされる善いものを検討しても、幸福をもたらすとは言えない。

これらの不完全な善の由来たるべき完全な善をもとめるなら、万物の父、神にかかわる事柄である。
神は完全な善であり、真の幸福である。
神に何らかの形であずかるとき、神性によって幸福にあずかる。

存在するものは、本性をもつことによって、ひとまとまりのものとして存在し、本性が失われるとき、存続しなくなる。
そして、事物の本性は善をもとめる。
万物の父たる神=善は、事物の本性すべてによって求められることで、世界の舵取りを行う。

第4巻

「ボエティウス」は問う。
善良な支配者たる神が世界を差配するというなら、なぜ世界には悪が存在するのか?
なぜ悪人が罰せられないのか?
なぜ悪人に思うがままに振る舞わせるか、その理由がわからなければ、神が存在しようと、人間にとって偶然が世界を差配しているのと変わらない、と。


悪人は、自身にとって善に見えるものを追うが、本性にかなった善に向かう力がない。
本性を損なった悪人とは、姿形は人間のままでも、その本性は獣であり、人間として存在していない。
善に向かう徳そのものが報酬であり、幸福である。

神が善き導き手として世界を差配した以上、その配剤の原因がわからなくとも、あらゆるものごとが正しく生じることを疑ってはならない。
すべての運は、順境も逆境も、みな善に結びついている。

第5巻

神の理性たる摂理が世界を差配して、運命の鎖があるのなら、人間に意志決定の自由はあるのか?

意志決定の自由はある。
「神の予見したことが確実に生じるなら、人間の意志や行為に自由はない」という考えは間違っている。
神の予見は必然を意味するのではなく、自由によって起こる事柄と両立する。

ゆえに、自身の意志決定の自由にもとづいて、人々は徳を養って正しく生きるべきである。

感想

哲学の女神の主張について

第3巻の幸福・善・神についての考察、第4巻から第5巻における神の摂理と人間の運命や自由についての考察を端折って、結論だけ取り上げるなら、

「人間本性に見合った善を求めること=善い人間になる=徳をみがくことで、神性=幸福にあずかることができる」

ということになると思う。

ボエティウスが日頃から親しんでいたこの哲学的な見解を悲嘆のあまり見失っていたこと、
あるいは、善の見かけに囚われて、悪人と同じく思うがままに振る舞うことを良しとした節が、
作中の「病気」を指すのだろう。

存在を本性(形相)や善と結びつけるロジックは、プラトンの議論を流用しているのに、まったく違う印象を受けて、(新プラトン主義に無知なだけに)面白かった。

ボエティウスはどういう思いで『哲学のなぐさめ』を書いたんだろうか

この本が特別な思想書であるのは、
ボエティウスが、まさに処刑を待つ監獄で、自分と自分のおかれた状況を作中に登場させたことにあるはず。

普通に読めば、哲学の女神の主張が、(作者としての)ボエティウスの主張と受け取るべきだろう。
でも、それは、『哲学のなぐさめ』の特別性を、彼が書き込んだ思想への誠実さや真摯さに回収してしまうことになる。
それは少しもったいない気がした。

ボエティウスは、作者、登場人物「ボエティウス」、哲学の女神という3つの人格で『哲学のなぐさめ』に関わっている。
処刑前という人生の土壇場で、哲学の女神にボエティウスが完全に同一化しているとは考えなくてもいいのではないか。

登場人物「ボエティウス」に、自身の迷いを託した作者ボエティウス。
そんな勝手な想定を押し付けて読んだら、筋違いかもしれないけど、ボエティウスの心の揺らぎを感じたような気がした。








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