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自分にとって"エンタメ"とは何かを考えさせられた 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』 感想(原作比較あり)

映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章』を見てきた。前章の感想はこちらに書いている。正直前章はプロローグと言った感じで、物語に関して何か判断できるポイントはなかった。こういうSF・セカイ系は結末が大事。それですべてが決まる。

で、鑑賞後。速攻で原作の11巻、12巻(最終巻)を購入した。今作品の結末はアニメ専用に書き下ろされたものと聞いていたので、比較がしたかったのだ。原作をこうして迷いなく買わせるくらいのパワーがあった作品といえるだろう。そういった意味では商業的にも素晴らしい成果。まんまとやられた。

この記事の以下の文章にはネタバレを含みます。原作の分も含めて。ご注意下さい。








ネタバレ配慮のためのスクロール終わり。以下ネタバレ。


結局、少女たちは傍観者だった

まずは劇場版の話をしたい。

前章を見た時、おんたんが世界を動かす物語だと思った。タイムリープによって歪められた世界。それを自覚し、親友と世界、どちらかを選ぶ物語になるのかなと。葛藤し、悩み抜きながらも、タイムリープしたからこそ出会えた「トモダチ」によって、世界を救う。そんな結末になるだろうなと推測していた。普通のSF冒険譚であれば、予想に近しい物語になっていたと思う。

しかし、今作品は異なる。門出とおんたんの2人は、最初から最後まで”傍観者”だった。世界の崩壊を止めようと尽力したのは異星人である大葉だったし、その結果を2人は東京から遠く離れた高速道路のPAで見届ける。彼女らは事の顛末に対して何も決断をしてないし、何も関わってない。


このアニメ劇場版の結末を見た時、印象はマイナスだった。主役が最初から最後まで傍観者だったのは、作品としてどうなのかと。結局、世界は完全な崩壊ではなく、東京の犠牲だけでおさまる。その結果を導きだしたのも、大葉の尽力と名もなき異星人たちのおかげ。結局地球の少女は何もしていない。

エンタメシーンとして少女たちの意思が物語に関わることはほぼなかった。何も爽快感はない。

エンタメ的なプラス要素といえば大葉がおんたんたちの元に帰ってきたこと。しかし、これもタケコプター的な飛行装置によって、つまり異星人たちの技術力によって帰ってこれたにすぎない。この物語に、おいたんと門出の意思が介入する隙間は非常に少なかった。


人々の行動に意味はないのか

この作品はエンタメ作品を志向していないんだなと思った。努力や人の思いで物事は大きくは変わらない。あるべき姿に収束していく。そういったニヒリズム的なニュアンスを感じた。

これを聞くと
「大葉とおんたんが出会い、彼を守るという行動をとったからこそ、世界の完全な終末は防げたのだ。彼女たちの行動に意味がないことはない。」
という反論が出るかもしれない。

たしかに、まったく2人の行動が意味を為さなかったわけではない。事実ベースである程度の影響を与えているだろう。しかし、結局作者はあまりそこを重要視してないというか
「そういった方向に作品のニュアンスを持たせたくない」
と自分が明確に感じたシーンがあった。


それは、東京での大爆発後、空中を浮遊している大葉を自衛隊員が助けようとしているシーン。

今まで、無抵抗の異星人をひたすらに虐殺し続けていた自衛隊員が、初めて人を救おうとする描写がされるシーン。もし、ここで視聴者にカタルシスを与えようとするのであれば、大葉は自衛隊員によって助けられるべきだ。自衛隊員は国民を守るという本来の役目を初めて果たすことができ、大葉もまた、異質な異星人としておいたん以外の地球人に初めて救われる。そんな素晴らしいシーンになるはずだった。


しかし、この劇場版では、彼の手はすり抜け、大葉は地上に落ちていく。その後、どういった過程を経たのかは知らないが、大葉はひとりでにおんたんのところに帰って来るのである。

作者の頭の中には、上記のカタルシスがある展開も思い浮かんでいたはずだ。あれだけ惹きつけられる物語を描く人が、そんなことも分からないわけがない。しかし、あえて作者はそうしなかった。

ここに自分は強いメッセージ性を感じた。最後の力を振り絞って恋人のいる場所へ帰る。そんなメロドラマ的な展開すら、ただ定められた物語かのようにこの映画は作った。


ちなみに、自分はこうした結末は大嫌いである。なぜ、わざわざお金を払ってエンタメを見るのか。クソッタレな現実世界にはない、人々の意思と努力によって物事が変わっていく過程を見て、それによって感動したいからである。そんな自分からすると、もう「は?」な結末だった。

ということで、即座に「デッドデッド 原作 違い」とかでググった。そしたら最終巻の展開が丸ごとカットされているとの情報が。これはもう原作を買うしかない。尺の都合で、こうしたやるせない結末にしたのかなとも思った。


原作との違い

原作との違いを簡単に説明する。原作では大葉はパスコードの入力をすることができない。結論的に、世界は終末を迎える。東京は爆発し、生物が触れたら爆散するオーブ「*」が地球に降り注ぐ。ただ、東京だけは、母艦の爆発によって「*」が爆散し、この脅威からは逃れることができた。

その世界で、門出とおんたんがどうなったのかは描かれない。そして物語の描写は門出の父の視点になる。実は、門出の父は死んでおらず、8.31事件の際に青葉のように異星人が体内に移植されていたのだ。しかし、中の人は死に、門出の父であり人間である「ノブオ」が意識を取り戻す。

荒廃した世界、唯一かろうじて人が住める日本を舞台に世界各国が実効支配を企む地獄の「終末後」の世界が描かれる。


この荒廃した世界の描写は素晴らしく、ハードSFモノとして十分な魅力を持つが、ここでは割愛する。結果的に、門出の父「ノブオ」は、おいたんが過去にタイムリープした装置を使って、過去へと飛ぶ。

おんたんと門出が出会う小学生時代に。そして、こう言うのだ。

…同じクラスに、中川凰蘭ちゃんって名前の子、いないか?
(中略)
じゃあ、話しかけてごらん。きっと世界が変わるから。

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 12巻より


この一言の後、いきなり時系列は16年後に飛び、何もかもうまくいった世界になっているのだ。侵略者は登場せず、世界も終わらず、門出は先生と恋人になり、おんたんはじめ、友達と仲良く大人として生きている世界になっている。


…(゚Д゚)ハァ?


よりエンタメを放棄した原作

原作のほうが、もっと嫌いなオチだった。上記の説明は、私が色々と説明を省略しているからこのような唐突感があるのかと思った人もいるかもしれない。正直、しっかり読んでいても唐突感は変わらないと思う。

浅野いにおのマンガ家としての圧倒的演出力に「いい話感」が出ているが、冷静に考えて意味わからん。少なくとも自分は納得できなかった。

いろんな人の考察を読んだなかでだと、一番しっくり来たのは共依存の「ぜったい」の関係の世界は、どうあっても「終わり」しかなく、健全な関わり方をすることで、「終わり」を回避できた、みたいな論が一番納得できた。が、エンタメとしては全くおもしろくない。

やっぱり、この作品は原作もエンタメを放棄し、ある意味「運命の奴隷」であることを選択するような作品なんだなと思った。


そういった意味では、この劇場版のオチは最低限のエンタメにまとめていたとは思う。大葉の努力・行動は少なくとも世界が完全に終焉になることは止めたのだから。

浅野いにおがどういう思いでこのラストに変更したのか。その心中を察することはできない。しかし、ある程度エンタメ作品として成立しつつ、彼の描きたかったモノを伝える、といった意味では最善の改変のような気もする。きっと、自衛隊隊員のシーンは、エンタメとして作り直さざるおえなくなったことへの、彼なりの反骨精神の現れのような気もする。


映像美としては凄まじい

割とケチョンケチョンに書いてしまった。が、これは自分と浅野いにおとの相性が悪いのが原因。彼の作風がもう絶望的に好きじゃない。マンガ家としての実力はピカイチだと思うし、実際読んでいたらグイグイと演出力で引き込まれる。だが、この冷めた感じの作風がどうしても好きになれない。ただそれだけのこと。

映画として、特にアニメーションは素晴らしかったと思う。劇場で見てよかったと思えたシーンがある。でんぱ組.incの「あした地球がこなごなになっても」が流れながら、東京が崩壊していくシーン。あれは、アニメ史に残る爆発シーンだと思う。現代において「オネアミスの翼」が語り継がれるように、後世に残るであろうシーン。それを劇場で見れたのは良い経験だった。

前編でも書いたが、あのクセの強いキャラデザを完璧に落とし込み、違和感なくヌルヌルと動かしたアニメーター陣は本当に素晴らしい仕事をしたと思う。


この映画を視聴して、なんというか、改めて自分がエンタメ作品に何を求めているのか、というのを自覚させられた。例え最後がバッドエンドだとしても、意志を持ち変えようと行動する「眠れる奴隷」の物語が見たいのだ。

『ジョジョの奇妙な冒険 第5部』より

そして、浅野いにおと相性が悪いということも学んだ。これは彼が悪いとか、そういった話ではなく。

全面的に褒めることができずに終わってしまったのは残念だけども、まぁそういった意味では学びがあった作品といえる。


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