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コスパ病: 貿易の現場から見えてきた「無視されてきた事実」

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久しぶりに面白かった、っていうか危機感しかない。

「より良いものをより安く」という考え方は否定されるものではないが、それを「人件費が安い国や地域」「安価な材料」「同じ製法」で実現して輸入した場合、国内の産業を再起不能なまでに破壊してしまうという話。

日本ではいくつかの産業や領域で、生産を人件費の安い国に移し、しかも現地に対して投資や教育指導を行い、海外生産の安いものを大量に輸入することが進んだ。その結果、日本の市場が安いものに席巻されて今まであった地場の産業が成立しなくなり、廃業が進み原材料の生産も途絶え、さらに廃業によって不要となった設備が輸出されてさらに海外生産が加速し、あとから産業の再生を願ってもその基盤すら全く失われてしまっている。

国内で自給ができない領域が増えるということは、海外にその供給元を握られるということで、供給元を握られると言うことは、実は価格の決定権も奪われると言うことになる。

ここでは、それを自損型輸入と呼び日本が貧乏になっていく(あるいはデフレから脱却できない)理由として警告している。

まぁ、どこかの業界でも聞いたような話であって、どこかの業界というのはネット広告業界なんだけど。

アドネットワーク広告が世の中に出てきたときに、やっぱり世の中のクライアントの多くは「コスパ重視」になったわけです。
さらに、インプレッション課金という広告掲載に対しての課金から、クリック課金というトラフィックに対しての課金に雪崩を打って変わっていったわけで、商取引のベースそのものも変わってしまった。

どこに広告が掲載されいようが関係ない。クリックされればいいわけだし、CPCやCPAが安ければ、それは施策として効率が良くて良い施策だと言うことになった。

これ、自損型輸入のいう「生産場所を人件費の安い国に移す」とは正確には異なるけど、DSPという人の手がかからない配信先プランニングシステムを一気に導入したということで、人件費の削減と同じだといえるんじゃないだろうか。実際に旧来型メディアのプランニングのあり方を一気に否定して、コスト重視で配信先を決めてしまった事になるわけだし。

さらに、広告掲載メディアも従来の記者による記事から個人ブログや個人コンテンツも広告掲載スペースに含めてしまったわけで、それこそ安価な材料=安価なコンテンツの導入であるとみなすことができる。しかも、その広告費の分配はクオリティー(質)ではなくて単純にインプレッション(量)でしかない。コストを安く、とにかく量だけを稼げれば、メディア収益になるのだ。

その結果、どんな広告掲載面に掲載されるのかがわからない、コントロールすることができない、メディアは収益が十分に上がらずにコンテンツが作れない、といった今の広告ビジネス環境ができあがってしまったわけで、それは消費者の「安いものがよい」というコスパ病と同様にクライアント(広告主)のコスパ病が原因だといえないだろうか。

さらに、広告業界も全体を上げてクライアントに安くて良い広告枠を買っていただこうと、日夜広告運用を続け、広告クリエイティブの改善を続け、どこが違うのかわからないようなABテストを繰り返し、究極の効率化をめざしていった。

その結果、ネット広告業界の一部の人達が日夜の運用で疲弊していく話を聞いたり、産業として豊かになっていくような未来が描きにくくなっていたりという話を聞くにつれ、まさに自損型輸入の広告版ともいえる自損型広告ビジネスともいえるような、似たような轍をたどっている気がする。
っていうか、個人的にはもう危機的だし、壊滅に近いとおもっている。

一方、この「コスパ病」の中では、そんな自損型輸入がすすむ日本が貧乏から抜け出すためにはどうすれば良いのか?というヒントや実際の活動が多く提示されている。消費者がその意識をコスト以外のところに向けていくというのはもちろんだけど、それ以外のキーワードとして「プロフェッショナルさ」「地産地消」「作り手の顔が見えるものつくり」などが上げられていた。

これ、貧乏になっていく広告ビジネスが貧乏から抜け出すためのヒントになるんじゃないかなと。

一つは、クライアントのコスパ病の治療。広告掲載面の質の確保とそのために必要なコストをしっかりかけると言うこと。

もう一つが、顔の見えるメディア選定・プロフェッショナルなコンサルティング。 誰でもできちゃうコスト重視の自動配信ではなく、プランニングや企画力にたいしてどれだけ時間とコストをかけるか?というプロフェッショナルな点。

もう一つの地産地消ってなんだろうね。
ライブコンテンツというのは一つあるだろうし、ライブが重視されるのであれば、もしかしたらコンテンツ制作におけるAIの排除なのかも知れないと、個人的に実は密かに思っていたりする。

どういうことかというと、AIって型に準じて一見綺麗に仕上がっているように見えるけど、実は作り手の顔がない。まぁ、AIだし。読んでて、さらっと流れていくだけなんだよね。味を出すようなスクリプトも多分あるんだろうけど、そこまでやるなら、自分で調べたり、きちんと学んだりして自分で書いた方が結果的に良い内容になると思うんだよ。

だから、コンテンツをきちんと作ろうとするならばAIの活用に頼るのではなく、どこまでAIを活用しつつ、同時にAIの影響力を排除できるかが一つのキーワードになるんじゃないかなと思うわけです。

だって、音楽だとAIが作ったものよりもプロフェッショナルな人の手による演奏やインプロビゼーションの方が圧倒的に「良い」じゃないですか?

要は、そういうことなんだと思うのです。

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