イタリア人の見た日本社会
イタリアと日本の(幼児)教育を比較研究しながら、いつも心がけていることの一つは「比較対象を理想化しすぎない」という意識です。他者から学ぶことが多くある、ということと、他者が自分より優れていると思い込むことは違うはずだからです。
逆にイタリアの資料に見る日本の教育や社会に対する視点から、時に多く学ぶこともあれば時に面はゆく感じることもあります。
1985年、東京青山のこどもの城開館記念事業として開催された展覧会とワークショップに来日した芸術家ブルーノ・ムナーリは帰国後『東京のこどもの城(Il castello dei bambini a Tokyo)』(Bruno Munari, 1995, Einaudi Ragazzi)という本を書いています。内容の大半は東京でのワークッショップ指導の様子とできたばかりの「こどもの城」について(当時最新の設備とプログラムを備えたこどもミュージアムが日本に実現したことにムナーリは自身の理想がかたちになったような感慨を覚えたように見えます)ですが、イタリア人の一般的な社会における振る舞いと日本人のそれの違いについても(ムナーリの日本びいきの視点で)述べています。
Hanno il senso della collettività e quindi il rispetto per gli altri (gli altri siamo noi). Una regola importantissima, che insegnano ai bambini fin dalle scuole materne, dice: ognuno deve esporre il suo pensiero ma non imporlo. Nel nostro paese, invece, ognuno cerca di imporre il proprio pensiero, le proprie idee agli altri. Molta gente si sente portatrice della verità: lo so I io come stanno le cose e ora te lo spiego. E le discussioni non finiscono mai.
彼らはコミュニティの感覚を持っているので、他者を尊重します(他者とは私たちです)。彼らが幼稚園から子どもたちに教える非常に重要なルールは、次のように述べています: だれしも我を押しつけず、他者を受け入れなさい。しかし、わが国では誰もが自分の考えや考えを他者に押しつけようとします。多くの人が、自分こそ真実の担い手であると感じています: 私は物事のあるべきを知っているので、今あなたにそれを説明しましょう、と。そして議論は終わりません。(p.66)
Nelle scuole materne giapponesi si insegna ai bambini come si sta con gli altri. Se una persona ti parla, devi ascoltarla e poi risponderai. Non si deve interrompere uno che parla. Anche da noi le persone educate non interrompono, ma spesso nemmeno ascoltano, ti lasciano parlare e poi parlano loro.
日本の保育園では、子どもたちは他の人と一緒にいる方法を教えられます。人があなたに話しかけるとき、あなたはそれに耳を傾ける必要があり、そのあとから答えます。話す人を邪魔してはいけません。ここでも教育を受けた人々は邪魔をしませんが、多くの場合、私たちは聞くことさえせず、自分が話してから相手が話をするものだと考えています。(p.68)
自分を主張することで他者や社会とうまく折り合って生きることが出来る、と考えるヨーロッパ人が多いのに対して、日本人は自己主張を控えて他者に合わせることが、むしろ社会性の発達と見なされる面があることは、今も昔もさほど変わらないと言えるでしょう。ムナーリは同胞であるイタリア人のもつ積極性と紙一重の厚かましさ、自己中心性が、戦後イタリア社会の問題を大きくしている、と考えていたようです。
このような日伊の文化比較論は現在も見ることが出来ます。イタリア文化会館(ローマ)から発信されていた記事の一部を紹介しましょう。
興味深いことに、この記事の筆者であるイタリア人は日本育ちだとのことです。
L’EDUCAZIONE SCOLASTICA DEI BAMBINI IN GIAPPONE: Perché sono così educati?
イタリア文化会館HP記事
Aggiornamento: 23 giu 2021
日本の子どもたちの学校教育について:なぜこれほど礼儀正しいのか?
イタリア文化会館 2021年6月23日記事
文:マッテオ・ガリアルディ、イタリア文化会館「シコモロ」ディレクター
Grazie ai social network abbiamo assistito a casi in cui i bambini giapponesi mostrano atteggiamenti eccezionali; bambini educati, molto gentili, onesti, disponibili che difficilmente perdono il controllo delle proprie emozioni o sentimenti.
Ma è davvero così?
Vediamo alcuni punti interessanti che sicuramente influiscono sulla buona educazione e principi.
SNSのおかげで、私たちは日本の子どもたちが(欧米の視点から見て)例外的な態度を示す事例を目撃してきた; 彼らはマナーが良く、親切で、正直で、寛容で、自分の感情や気持ちのコントロールを容易に失わない。
しかし本当にそうだろうか?
マナーや社会の原則に確実に影響する興味深い点をいくつか見てみよう。
A scuola non si studiano solo le materie scolastiche, c'è uno spazio importante per conoscere le emozioni, la natura e l'ambiente con l’obbiettivo di diventare un membro prezioso della società.
Esempio: all’asilo, che va dai 3 ai 5 anni, in ogni classe c’era un coniglio, per imparare a prendersi cura degli animali. Inoltre fin dall’asilo i bambini imparano a cucire, a stirare e molto altro. Non è solamente un obbligo scolastico, ma un divertimento per i bambini.学校では、ただ教科を勉強するだけでなく、社会の一員として価値ある人間になることを目指して感情や自然や環境について学ぶ大切な場がある。
例えば:3歳から5歳の子どもが通う幼稚園では、動物の世話の仕方を学ぶためにどのクラスにもウサギが飼われていた。また保育園から裁縫やアイロンがけの仕方など、さまざまなことを学ぶ。それは学校の課題であるだけでなく子どもたちにとって楽しい遊びなのだ(※訳註:保育園での裁縫やアイロンがけとは,ごっこ遊びのことか、あるいはモンテッソーリ教育か)。L'educazione ai valori occupa una posizione di rilievo: imparano le buone maniere, la pulizia, il rispetto per la natura e le persone o la tolleranza come qualcosa di ''naturale''.
Apprendono fin da piccoli le regole base del comportamento per una buona convivenza.
Esempio: Una volta a settimana c’è il ‘’Chorei’’ cioè la riunione mattutina, in classe, nella palestra della scuola o all'aperto. Di solito c'è il discorso del preside o in sua assenza di un'altro insegnato. Ci hanno insegnato ad avere pazienza, a sopportare ciò che non sempre piace fare.
Questa abitudine nelle scuole c’è dall’asilo fino alle superiori. (Non nego che a volte era davvero straziante…)道徳は教育の重要な位置を占めている: 子どもたちはマナー、清潔さ、自然や人々への敬意、あるいは寛容さを「当たり前のこと」として学ぶ。
彼らは幼い頃から、良好な共存のための基本的な行動ルールを学ぶ。
例えば:週に一度は「朝礼」があり、それは教室や体育館、または屋外で行われる。通常は園長の話か、園長が不在の場合は他の教師の話がある。私たちは忍耐強くあること、いつでも嫌なことを我慢する必要があることを教えられる。
学校におけるこの習慣(朝礼)は、幼稚園から高校まで存在する。(この儀式については、時に本当に心が痛むこともあることは否定しないが...)。
Imparano a prendersi cura dell'ambiente attraverso un compito chiamato Osoji, che consiste nel pulire la scuola, l'aula, i corridoi, i bagni, le scale... Lungi dall'essere una punizione, si basa sull'idea che se sono i bambini a pulire la scuola ci penseranno due volte prima di sporcarla.
Esempio: Ogni giorno ci sono i turni di pulizia, dove la classe si divide in gruppi settimanali e ogni gruppo ha il suo compito. Il gruppo che pulisce i bagni, quello che pulisce i vetri, i corridoi, le scale ecc. Questa routine si faceva di solito dopo mangiato, ogni giorno. La scuola era sempre pulita. Ogni giorno poi, c’era l’addetto a pulire la lavagna.「おそうじ」と呼ばれる、学校、教室、廊下、トイレ、階段などを掃除する作業を通して、子どもたちは環境を大切にすることを学ぶ。これは罰としての仕事とは程遠いもので、子どたち自身が学校をきれいにすることで学校を汚す行為を改める、という考えに基づいている。
例えば:毎日、掃除の当番があり、クラスは週ごとにグループに分けられ、各グループにそれぞれの仕事がある。トイレを掃除するグループ、窓を掃除するグループ、廊下や階段を掃除するグループなどだ。この日課はたいてい毎日、昼食後に行われていた。学校はいつも清潔だった。それから毎日黒板を掃除する係もいた。
Il rispetto per gli altri è alla base di tutto, come per esempio indossare una mascherina al minimo sintomo di raffreddore, ringraziare i pasti prima e dopo aver mangiato, essere gentili con gli altri o non gridare o alzare la voce quando si è in un luogo pubblico.
風邪をひいた気がしたらマスクをする、食事の前と後に感謝のあいさつをする、他人に礼儀正しく接する、公共の場では大声を出したり張り上げたりしない、など、他人を尊重することがすべての基本である。
Credo che quest’ultimo sia forse il più importante, avrei milioni di esempi da fare, ma il concetto, bambino o adulto che sia, è proprio il rispetto per gli altri.
In Giappone c’è la parola ‘’Meiwaku’’ che significa ‘’disturbo’’ o anche ‘’fastidio’’ che riassume tutto il concetto che poi è alla base di tutte le relazioni sociali. Questa parola viene utilizzata moltissimo, e in Giappone si dice che la coda più importante è non dare fastidio agli altri, ‘’他人に迷惑をかけない - Tanin ni meiwaku wo kakenai’’.
Questa è la base, non dare fastidio, quindi non si alza la voce in pubblico, non si parla al telefono in treno, se c’è qualcuno nella tua scia ti sposti, e tutto ciò che ti può venire in mente lo puoi benissimo aggiungere.
最後に挙げたことは特に重要だろう、例を挙げればきりがないが、それらのコンセプトは、子どもであれ大人であれ、他者を尊重するということだ。
日本には「邪魔」、あるいは「迷惑」を意味する「Meiwaku」という言葉がある。これはすべての社会的関係の根底にある概念全体を要約している。この言葉は実によく使われ、日本では「他人に迷惑をかけない」ことが最も大切なことだと言われる。
これが基本原理で、周囲の迷惑にならないように公共の場で声を荒げない、電車の中で電話で話さない、後方に人がいたら移動する、その他思いつくことは何でも付け加えられる。
日本育ちの筆者だけあって、ムナーリ以上に日本の子どもたちの日常に踏み込んだ詳細な観察と考察です。また以下のように「イタリア下げ」「日本上げ」にならない視点もおさえられています。
Ma come dico sempre, non è tutto rose e fiori. Questa volta ho parlato dell'EDUCAZIONE che ricevono nelle scuole.
Tutto questo comporta poi delle aspettative, dei risultati da raggiungere, dei traguardi imposti.
(...)
L'educazione è meravigliosa in Giappone se poi proiettata bene, ma questo non sempre è possibile. Ci sono decine e decine di fattori che influenzano la crescita di un ragazzo, perché la cultura giapponese è molto complessa.
しかしいつも述べているように、(日本の)全てがバラ色ではない。今回は彼らが学校で受ける「教育」について述べた。
これらすべて(の教育)は、ゆえに期待、達成すべき結果、課せられた課題と関連する。
(中略)
日本の教育は、うまく機能すれば素晴らしいものだが、実のところ必ずしもそうではない。日本の文化は非常に複雑で、子どもの成長に影響を与える要因は何十もの要素があるのだ。
私たちは明治以来?舶来の知識や技術を「自分たちのものより進んだもの」と捉え手本にして発展してきた、といえますが、他者の尊重と自己卑下が裏表になってしまうこと、特に海外の詳細な情報を国内に紹介する立場の者(研究者など)がこのようなスタンスをとることは、ある意味で大きな誤解を生む危険を秘めているように思います。
「レッジョ・エミリアの幼児教育はすばらしい」「イタリアの創造性を尊重する教育は素晴らしい」「それに較べて日本の教育は…」といった議論考察の進め方では、本来見えるはずのものを見えなくしてしまう、という「いましめ」をもって研究対象に向かい合う必要があるのではないか…そんな風にも考えています。
どんな国にも善い人と悪い人が住んでいて、それぞれの社会に固有の長所と短所を抱えながら、日々の課題に悩みつつ生きている、と考えれば、イタリアの教育に学ぶこととは、互いの生きる社会の文脈を深く理解しながら共感をもって相対化し、そこから何かを学んでよりよい生き方、学び方を模索することかもしれません。
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