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ブルーノ・チアリの新しい教育技術とICTを考える

 レッジョ・エミリアの幼児教育を調べていくうちに、レッジョの教育改革を牽引したローリス・マラグッツィに影響を与えたブルーノ・チアリという教育者の存在を知りました。
 これまでにも断片的にチアリと彼が関わっていたイタリアの教育協力運動(MCE)について覚書を書いてきましたが、チアリについて日本語で読める資料が少なく、このところ拙いなりにチアリが1962年に出版した『新しい教育技術(Le nuove tecniche didattiche)』に直接あたってみることで彼の教育の特徴を知ろうと試みています。
 チアリをはじめとする教育協力運動の教師たちはフランスの教育者セレスタン・フレネの教育改革運動に大きな影響を受けました。フレネは学級活動に簡易印刷機を導入して学級通信を印刷して地域社会や他の学校と交流する活動を実践しましたが、チアリたちもフレネに倣って学級通信印刷活動を積極的に教育に取り入れています。
 チアリはフィレンツェに近いチェルタルドの小学校で作った学級通信を、教育協力運動の仲間であるマリオ・ローディが教鞭をとるピアデーナ(ミラノの南東に位置する小都市)の小学校などと交換していたようです。ローディの教育については、田辺敬子さんの訳によるローディの著書『わたしたちの小さな世界の問題』(晶文社)に詳しく紹介されています。
 チアリはフレネと学級通信印刷活動について、

L'elaborazione di una "tecnica della tipografia scolastica" è merito incontestabile di Célestin Freinet. Tale merito, in verità, non sarebbe di gran conto, se si trattasse solo dell'introduzione di un altro fra i tanti sussidi didattici che lo sviluppo della tecnica e della scienza moderna permette d'introdurre nella scuola. Non a caso ho parlato non dell'introduzione di uno strumento puro e semplice, che il maestro possa utilizzate a suo piacimento, ma di una "tecnica", cioè di un procedimento che implica significati e valori pedagogici. Non si tratta solo, quindi, di alzare e abbassare una pressa e di produrre della carta stampata. Neanche si tratta di formare dei "piccoli tipografi" e di dare ai ragazzi alcuni elementi di formazione professionale.
La tecnica della tipografia a scuola ha un valore didattico e pedagogico di eccezionale rilievo; essa sola, se attuata coerentemente, basta a trasformare la vita di una classe e a porre le basi di una comunità di tipo nuovo. Non che la tipografia abbia un valore magico; non che senza di essa non sia possibile una educazione moderna e progressiva; sta di fatto, però, che la tecnica tipografica si è dimostrata efficiente in qualsiasi condizione di tempo e di luogo e non ha richiesto e non richiede al maestro doti eccezionali di educatore, ma solo buona volontà e un minimo di orientamento.

「学校印刷技術」の開発は、疑いなくセレスタン・フレネの功績である。この功績は、実のところ、もし現代の技術や科学の発展が学校への導入を可能にした多くの教材のひとつを彼が紹介したことに過ぎないと捉えるなら、大きな意味はないだろう。私が、教師が自由に使える純粋で単純な道具の導入についてではなく、「技術」、つまり教育学的な意味や価値を暗示する手順の導入について話したのは偶然ではない。したがって、それは単に印刷機を上げ下げして印刷された紙を作るという問題ではないのだ。それはまた「小さな印刷工」を訓練して職業訓練の要素を与えたという問題でもない。
学校における印刷の技法は、非常に高い教育的・訓育的価値を持っている。それが一貫して実施されれば、それだけで教室での生活を一変させ、新しいタイプの共同体の基礎を築くのに十分なものだ。印刷に魔法のような価値があるわけではなく、印刷なしには近代的で進歩的な教育が不可能なわけでもない。しかし印刷の技術は時代や場所のあらゆる条件の下で効率的であることが証明されており、教師に特別な資質を要求したことも、また今後も要求することもない。

と、述べています。
 この記述に先立って、チアリは学級における共同体形成の注意点から、日々の生活の中の話題や疑問をとらえて「考えたことを話す」こと、そして「書くこと」へと児童を導いていく実践的なプロセスなどについて詳細に説明しています。
 チアリは、上に紹介した学校間の交流で、できるだけ異なる地域環境の児童たちと交流することで風土や文化への関心を喚起する意図を強調し、また児童の交流だけでなく教員を目指す学生と児童が交流することで互恵的な効果が期待できるという視点も示しています。

La corrispondenza
Si è già parlato della corrispondenza, quale importante e fondamentale motivazione dello scrivere e del leggere. Si è già detto, ed è ormai pacifico, che la lingua è un mezzo di comunicazione sociale. Il pensiero scritto vuol essere moneta circolante, qualcosa che va e parla lontano, e dà vita a uno scambio, a un dialogo. Tutto questo fin da principio.
Non si deve attendere che il ragazzo sappia scrivere, per indirizzarlo a instaurare il primo rapporto epistolare. Anzi, il fanciullo deve imparare a scrivere proprio per lo stimolo offerto tra l'altro dalla corrispondenza. Tutti coloro che hanno sperimentato questa tecnica fin dal primo mese della prima classe sono rimasti colpiti dalla intensa "volontà di leggere" che i fanciulli manifestano appena ricevono le prime letterine dagli amici lontani.
Tutte le capacità del ragazzo sono tese a decifrare il piccolo testo che gli sta dinanzi, ed è un'esplosione di entusiasmo quando egli riesce a intendere il pensiero dell'amico; il fanciullo corre vittorioso dal maestro per comunicargli l'evento, e vuol far sapere a tutti che cosa c'è scritto nella lettera. La conquista strumentale è qui legata alla gioia, tanto più grande quanto più è derivata da un impegno serio e faticoso.
A parte il fatto che si dovrebbero intensificare i contatti fra classe e classe dello stesso plesso e della stessa località, che oggi sono quasi inesistenti, è molto importante mettere quasi immedia tamente i fanciulli in rapporto con classi di altri paesi e città. È l'educatore, qui, che deve prendere l'iniziativa. È assurdo che tutto si debba aspettare dalla cosiddetta "spontaneità degli alunni", intesa come una polla da cui miracolosamente dovrebbero erompere precisi interessi, richieste, iniziative. Il maestro può e deve far proposte e dare un indirizzo; l'importante è che l'iniziativa del maestro trovi una pronta e non provvisoria rispondenza nei fanciulli e si dimostri consentanea ai bisogni fondamentali dell'infanzia.
(…)

(学校間の)文通
書くこと、読むことの重要かつ基本的な動機としての学校間通信(文通)についてはすでに述べた。言語が社会的コミュニケーション手段であることは、すでに言われてきた通りであり、現在では広く受け入れられている。(文字に)書かれた思想は流通の通貨であり、遠方へ伝えられ交換や対話を生み出す。これらすべては、最初からそうなのだ。
子どもが作文の書き方を知るまで、最初の文通の提案を待つ必要はない。それどころか、子どもは、むしろ文通によって与えられる刺激によって、正確に書くことを学ぶことに駆り立てられる。一年生クラスの一ヶ月目からこの技術を試してきた人たちは、みな、子どもたちが遠方の友だちから最初の手紙を受け取った瞬間に強烈な「読書の意欲」を示すことに感動した。
(子どもの)目の前にある小さな文章を解読するために、その子どものあらゆる能力が発揮され、友だちの考えを理解することに成功したとき、彼は爆発的な興奮を覚える; そして手紙に書かれていることを、(クラスの)みんなに知らせようとする。ここでの手段の達成は喜びと結びついており、それが真剣で懸命な取り組みに由来するものであればあるほど、より大きな喜びになる。
今日ではほとんど存在しない、同じコミュニティや地域のクラス間の接触を強化すべきだという事実とは別に、子どもたちを他の村や街のクラスとすぐにでも接触をもつことは非常に重要である。ここで、イニシアチブを取らなければならないのは教育者だ。ここでいわゆる「生徒たちの自発性」にすべてを期待するのは不合理なことであり、教師の介入から的確な興味、要求、イニシアチブが奇跡的に生まれると理解すべきだろう。教師は提案し、指示を与えることができるし、そうしなければならない; 重要なことは、教師のイニシアチブが子どもたちの中に、暫定的な反応ではなく、迅速な反応を産みだし、幼年期の基本的欲求に合致することを証明することだろう。
(中略)

È chiaro che lo scambio tra i ragazzi di due classi non deve consistere in un reciproco invio di letterine sciroppose, piene dei soliti convenevoli. Così impostato, lo scambio è destinato a esaurirsi ben presto. Ciascuna delle classi che corrispondono, in verità, è parte di un ambiente fisico, economico e sociale, che ha un proprio costume e determinati aspetti culturali e folcloristici. Tutto questo viene fuori, inevitabilmente, da una corrispondenza bene impostata, la quale, per conseguire migliori frutti, deve, di regola, effettuarsi tra scuole di località molto diverse. Una classe che risiede nella pianura padana non trarrebbe grandi frutti culturali da uno scambio con una classe dello stesso ambiente, mentre molto interesse potrebbe venire da una corrispondenza con una scuola residente sul mare o in montagna. Così, è bene accoppiare possibilmente la città con la campagna, il nord con il sud. È dal contrasto dei diversi ambienti che scaturisce la scintilla dell'interesse.

2つのクラスの子どもたちの交流が、決まりきったお世辞だらけの砂糖漬けのような手紙を交換するものであってはならないことは明らかだ。このようなやり方では、交流はすぐに息切れしてしまう。実際、それぞれのクラスは、物理的、経済的、社会的な環境の一部分であり、独自の習慣や文化的、民俗的な側面を持っている。これらすべては、必然的に、よく練られた文通から必然的に生まれるので、より良い成果を得るためには、原則としてまったく異なる地域にある学校の間で(文通が)行われなければならない。(イタリア北部の)ポー河流域の地域に住む子どもたちのクラスが、同じ環境の他の学校のクラスと交流しても、文化的な恩恵はあまり得られない一方、海辺や山間部に住む学校との交流であれば、大きな関心を呼ぶだろう。このように、都会と田舎、北部と南部のペアにするのもいいだろう。異なる環境のコントラストから興味関心の火花が生まれるのだ。

Corrispondenza tra scuola primaria e istituto magistrale
Mi sembra opportuno, a questo punto, porre l'accento su un tipo di scambio particolarmente efflciente (se bene impostato) sotto ogni punto di vista. Si tratta della corrispondenza tra una classe della scuola primaria e una dell'istituto magistrale. Qualcuno troverà strano che noi proponiamo questo tipo di rapporto, tra individui aventi dimensioni psicologiche tanto diverse. La cosa, invece, non è poi troppo strana se si pensa che le ragazze dell'istituto magistrale, oltre ad avere naturalmente "tendenze materne", hanno uno specifico interesse professionale a conoscere la vita e i problemi dei ragazzi di una classe elementare, e in modo speciale di una prima classe. I ragazzi, da parte loro, non sono meno interessati allo scambio.
I bambini di sei anni, infatti, hanno ancora uno spiccato bisogno di "protezione", per cui i rapporti con un'amica "grande", affettuosa e comprensiva, corrisponde in pieno alle loro esigenze psicologiche.

小学校と教員養成学校との交流
この際、以下のあらゆる点で(うまくやれば)特に効果的な交流のタイプを提案する機会でように思える。それは小学校のクラスと教員養成学校との交流だ。このような、異なる心理的な次元の個人の間において関係を提案することを奇妙に思う人もいるかもしれない。しかし教員養成学校の女子学生たちはもともと「母親的な傾向」を持っていることに加え、小学校のクラス、特に1年生のクラスの子どもたちの生活や問題を知ることに特に職業的関心を持っていることを考えれば、この提案はそれほど不思議ではないだろう。若者たちもこの交流に少なからず興味を持っているのだ。
6歳の子どもたちは、まだ「保護」を強く求めているため、愛情深く理解のある「大きな」友達との関係は彼らの心理的なニーズにも完全に対応している。

 チアリがフレネの学校印刷活動を学校教育改革の手段として重視したのは、それが「新しい教育技術」だったからではなく、教師にとっても導入しやすい簡易印刷機による活動を通じて、子どもたちの生活と結びついた学習の可能性が広がると確信したからだった、と考えることができます。

 チアリたちのイタリアにおける教育改革は半世紀以上も前の提案で、今となっては簡易印刷機どころか、パソコンとプリンター、タブレットやスマートフォンとSNSといった新しい通信技術が私たちの生活にすっかり馴染んで、学校の現場でもICT教育待ったなし,と言った記事がメディアに頻出しています。

 たまたま、ICTツールを積極的に活用した授業に取り組んでいる小学校教師の友人がいます。彼はギガスクールの施策が具体的に動く前から新しい情報機器の可能性を探っていたようですが、2023年に入って生成AIソフトを授業に活かす工夫を次々と発信していて、書籍やインターネットだけでなくTVメディアでもその姿を見かける機会が多くなってきた気がします。

 彼がICTツールを学校教育に積極的に取り入れているのは、おそらく自身が新しい教育技術に興味があるのだろう、と想像するのですが、それ以上に新しいツールを取り入れることで従来の教育技術ではうまく対応できなかった子どもたちの学びのサポートに大きな可能性を感じているからでしょう。

 牽強付会かもしれませんが、半世紀前海の向こう(フランス、イタリア)で印刷機を学校教育に導入することで生活とつながる主体的な学びの可能性を探究したチアリたちと、現代日本の教育現場でICTツールの可能性を探究する友人の目指しているところは、それほど離れていないように思うのです。

 チアリの影響を公にしているレッジョ・エミリアの幼児教育でも、その記録映像の中で、幼児たちがデジタルカメラやPCソフトを「おもちゃ」のように気軽に使いながら探究的な遊びを展開している様子を見ることができます…

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