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『道元思想を解析する: 『正法眼蔵』データベースが示す真実』門馬幸夫著 「本覚思想・如来蔵思想批判」という道元自身の立場をテーマ化した作品


Reviewed in Japan on August 7, 2021 Amazon(一部改変)

上記テーマに絞ってキーセンテンス(核心的なポイント)を転載する。

37頁から引用
「筆者の観点では道元が「本覚思想・如来蔵思想」批判をしたことは「そのとおり」とうけがえるものであるが、それを克服するに道元は「行為論」(「修」、修証一等あるいは仏道修行、あるいは「心身一如」における「身」の問題など)を持ってきたとも思われ、それらが『眼蔵』を構成する重要な要素ともなっていると見なされる。」

この筆者の立場は私自身の道元解釈の立場と一致する。

39頁から引用「西有(引用者付記:西有穆山)のここでの「公案」の解釈は(中略)「本覚思想」・「如来蔵思想」と見なすべきものである。しかし(中略)道元は「現成公案」の巻で、西有が述べるような説示を、本当に試みたのであろうか。筆者はこれに対して、否、と考えるものである。」

41頁から引用「「現成公案」の巻における「公案」という用語について(中略)そのほとんどは西有の解釈によるか、あるいはその亜流と見なされる。」 

筆者によればこれでは本覚思想・如来蔵思想(範疇的にはアニミズムに還元される)と区別され得ない。

53頁から引用「(引用者付記:「現成公案」巻の「諸法の仏法なる時節」の)「諸法」については、仏道修行をしている場合の、「諸法」と受け止める。」

76-77頁から引用「この「時節」の中には主体の行為があってのことではあるが、それが「認識」(思惟)の次元にとどまる限り、「仏道修行」ではないのであって、「行為」・「実践」こそが「仏法なる時節」を将来するのである、と 道元は述べている。」

85頁から引用「仏祖が「自己」と「面授」した、その時(正当恁麼時)には、それは「仏」と「仏」とが面授することにほかならない(中略)そこでは、唯、仏と仏とが対面をしている、すなわち「唯仏与仏」ということなのだ。」

86頁から引用「仏道修行をするものが、その「行為」をすることで、それ自体、すでに「仏 である(あるいは既に「仏」となっている)、という見方は、 道元独特の考え方である、と 言ってよい。」  

89頁から引用「真に仏の教えを学び、真に仏の行為を作している(仏作仏行をなす)ものとしての「身心」は、すなわち「仏」なのである。行為(行動)こそが(中略)「本覚思想」・「如来蔵思想」を打破する道なのである。身心脱落という「証」の「状態」は、この延長線上にある。」 

113頁から引用
「「修証」ということも(中略)行為をしたのちに何か(悟り)が得られる、というものではない。(仏道修行という)行為とその果(仏となっていること)の証しというのは、同時(事)・同参なのだ。そこに(中略)「現成公案」がある。」

123頁からの引用
「「本証妙修」という、近代のある時点で、誰かが標榜し、称え始めた「造語」(中略)ならびに「本証」および「妙修」という語は、到底、 道元の思想のエッセンスを伝えているもの、とは思われない。」

 つまり井筒俊彦がどれだけ称揚しようと大乗起信論は道元の核心にヒットしないし、中沢新一がどれだけ称揚しようと華厳経は道元の核心にヒットしない。それらは道元にとってつまるところ超克の対象である。道元のみではない。鎌倉(期の)仏教という言い方には極めて重要な意味がある。それは華厳経と大乗起信論(本覚思想・如来蔵思想)超克の巨大な運動の始まりを告げるものだからだ。そしてそれは現在も続いている。

なお、12巻本『正法眼蔵』の真偽(道元の真筆か偽書か)の判別論証には成功していない。

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