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和国の教主 聖徳太子

令和3年(2021)は聖徳太子の1400年遠忌にあたります。
聖徳太子は仏教を内面的・精神的なものとして理解され、現世利益や鎮護国家などを仏教に求めることはなかったと言われています。
天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に載せられた「世間虚仮、唯仏是真」は太子のことばとして伝えられます。
特に憲法十七条は太子の仏教理解を示すものです。

憲法十七条は「一に曰く、和を以て貴しとなす」「二に曰く、篤く三宝を敬へ」が特によく知られていますが、全体にわたって「思い込みの危険性」と「意見を出し合い協同することの重要性」が説かれています。

https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310014_00000
                (NHK for School「十七条の憲法」)

ここでは、第十条をご紹介します。現代語訳はDharma Service Workerの試訳です。
〔現代語訳〕
怒りをなくし、瞋りを棄て、他の人が自分と違う考えであっても怒ってはならない。人は皆それぞれに心があり、それぞれに思いがある。他の人がこれが良いと言っても自分は良くないと思うし、自分がこれが良いと思っても他の人は良くないと考える。自分は必ずしも聖人なのでなく、相手が必ずしも愚かだというわけでもない。どちらも凡夫なのだ。正しいとか正しくないとか、どうして決められるだろう。おたがいに賢くもあり愚かでもあり、まるで耳輪には端がないようなものだ。だから、誰かが怒っていたら、むしろ自分が間違っているのではないかと恐れなさい。自分が正しいと思っても、多くの人の意見を聞き、一緒に行動しなさい。
〔原文〕
十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。我獨雖得、從衆同擧。
〔書き下し〕
十に曰(いわ)く、忿(いかり)を絶(た)ち瞋(いかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒(いか)らざれ。人皆(みな)心あり、心各(おのおの)執(と)るところあり。彼是(かれぜ)とすれば則(すなわ)ち我(われ)は非(ひ)とし、我是とすれば則ち彼は非とす。我必ずしも聖(せい)に非(あら)ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是(こ)れ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非(ぜひ)の理(り)、なんぞよく定むべき。相共に賢愚(けんぐ)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきが如(ごと)し。是(ここ)を以(もっ)て、彼(か)の人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえって我が失(あやまち)を恐れよ。我独(ひと)り得たりと雖も、衆に従って同じく挙(おこな)え。

聖徳太子のおことばに習って、私たちDharma Service Workerも思い込みや独りよがりに注意し、みなさまの意見を聞きながら、がんばります!
応援よろしくお願いいたします!




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