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【終了報告】対話型読書会『センスメイキング』

みなさんこんにちは、デザケンのシモウサです。

とーっても遅くなってしまったのですが、8月末に開催された対話型読書会『センスメイキング』の終了報告をアップいたします。

今回は、第一回目の読書会で取り上げた課題図書『センスメイキング』のリバイバル読書会でしたが、終えてみて、やはり私達デザケンの根底の想いに通づるものがあるなと感じた読書会でした。
今回の読書会からも、対話の中から非常に興味深い示唆を投げかける言葉が生まれていますので、ご紹介いたします。ぜひご覧になってください。

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・センスメイキングを、小さい単位でやることを目指したい。今日の対話で出てきた、「味の違う2杯目のジンライム」の様な気遣いを目指したい。そんなマスターにはなかなか成れないけれど、ちょっとでも近づけるように。目の前のお客さんに向かい合いたいと思った。

・センスメイクするにあたって、自分にとっての事実、バイアスを捨てる、ということを持ち帰りたい。それはもしかしたらデータに左右されていることもあるだろうし、自分の過去の経験というのもあるだろうけれど、そこを越えて、相手にとっての経験とか、ストーリーにどれだけ入っていけるかを大切にしたい。この部分はすごく意識はしているものの、なかなか難しいなと、今日の読書会で感じた。

・ショールームのディスプレイを本物の野菜にしてみる、という対話を持ち帰りたい。そこが、自分の人間としての芯にぐいっと来た気がした。生活感というものにセンスメイキングは帰着するような気がしていて。行為としては何かを創る、演出すると言うことだと思うのだけれど、そういうときに、作り物ではなく、別に煌びやかでもスタイリッシュでなくとも良くて。相手の琴線に触れる何かを探ると言うことは、自分がこれからの人生でやっていきたいことだなと、改めて思った対話だった。

・大学時代の恩師に言われて耳に残っている言葉があって。自分の生業はデザイン業なのだけれど、「デザイナーは切れそうなナイフを作るのではなく、切れるナイフを創るのだ」と言われた。切れそうなだけのナイフが世の中でどれくらい多いことか。プラスチックの野菜がまさにそうだと思う。何となくの雰囲気のそれっぽい何か。そうではなくてデザイナーがやらなければならないのは、そんな雰囲気だけ感じられるナイフではなくて、切れるナイフじゃないと使い物にならないと言われた。リアルを追求し、本質に迫ることの大切さを話した対話から思い出したエピソードだった。

・持ち帰る一言は、センスメイクする、を持ち帰りたい。誰も体感したことのないVUCAの時代に入っているよと言われて、結構経ったと思うけれど、とはいえ、まだ実感ないという方々もいたりして。そんな中で、着々と、便利なだけのものは選ばれなくなってきていると感じていて。センスメイクしないと、自分の存在意義を、自分でうまく作れない気がしていて。人は何のために存在するのか、ではないが、誰かの役に立ちたい、誰かに気を遣える自分で居たい、と思うとやはり、センスメイクなくして自分自身がハッピーになれない気がする。
その時に思い出した言葉がひとつあって。五木寛之さんの、確か『大河の一滴』という本の中で、飄々と生きる、ということを言っていて。柔よく剛を制すではないですが、力ある者が勝つのではなく、自分が目指すのは、どんなに雨に打たれ風に吹かれても飄々と生きていける自分でいたい、と書かれていた気がするのだけれど、その言葉に中高生ながら共感して。生きていくために人が何か判断する時に最終たどり着く所は、どんな時代も個人な気がして。飄々と生きながら、新しい時代のセンスを作っていけたら良いなと思った。

・高度経済成長期って、物質的にモノ、必要最低限なモノで溢れてきて。その時代の意味って分かりやすかったと思う。でも今起きてる事って、デジタル化然りなのですが、意味が多様化してきてると思う。かつそれが、目に見えない領域に起きていて。センスメイキングする話で、デザケンの対話でよく出る「デザイナーが使う3つのみる ※見る(=see)、観る(=watch)、察る(=feel)」という言葉を思い出した。ここで言う中で一番高度なのが、察る(=feel)なのだけれど、この領域にセンスメイキングの核心がある気がし、かつ、センスメイキングってスキルではなくて人格なのではないかな、という気がした。

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