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時代の空気を演じる『ドライブ・マイ・カー』の新しい演技法。

米国アカデミー賞!もう明日ですね!

『ドライブ・マイ・カー』には、手話でセリフを言う聴覚障害者の俳優が登場したり、幼児虐待のトラウマを抱えた人物が登場したり、舞台が広島だったり、日本・韓国・台湾・ドイツ・フィリピン・インドネシアなどの俳優達による多言語演劇のシーンがあったり・・・まさに今語られるべき要素が満載の映画です。

これを万全のアカデミー賞対策!と見る方々もおられるようですが、それはまったく的外れな分析でしょう。実際『ドライブ・マイ・カー』は、『パラサイト 半地下の家族』の時みたいにアカデミー会員にロビー活動をすることも、宣伝費の関係でほぼ出来なかったという話ですし、そもそも賞を獲りに行くような座組じゃなかったわけです。ではなぜ『ドライブ・マイ・カー』は「まさに今」の映画になっているか?

それは皆さんもご存知の通り、「戦略」とは要するにデータ分析から後追いで作品に組み込まれるものであるのに対して、歴史に残る傑作というものは、クリエイターが「時代の空気」を生で感じてむしろ時代に先行して作られるものだからです。

今回の演技ブログ「でびノート☆彡」は、『ドライブ・マイ・カー』の「演技」について、いったいどのあたりが時代に先行しているのか? そして「濱口メソッド」と呼ばれる独特の演技法/演出法はどんな目的のために生み出されたのか? について明らかにしてみようと思います。

「倍返し」しない主人公。

結論から言うと、今までの映画の普通は『うなぎ』だったんですよ。間男は殺されるし、浮気した妻も殺される、もしくは復讐される。
もしくは「健さん」だったんですよ。理不尽な酷い目にあった男は耐えて、耐えて・・・そしてついに最後には爆発して悪人を全員惨殺する、それがドラマだった。最近の言葉で言うところの「倍返しだ!」ってやつですよね(笑)。
浮気された夫は浮気相手や妻に復讐するのが当たり前だったんですよ。ところが『ドライブ・マイ・カー』は違うんです。主人公・家福は苦しむのですが、妻にも浮気相手にも復讐しない。復讐しようとすらしないんです。

たしかにボクも初めて観たときちょっと驚いたんですよ。家福が妻とその浮気相手の濡れ場を見てしまった時、家福がその現場に踏み込んで暴力を振るうとか、なんらか復讐のシーンが始まるのだなと思ったんですが・・・そんな事は起きずに、妻はある日病気で亡くなってしまう。

そして妻の浮気相手・高槻が家福の前に再登場した時も「なるほどココからか、復讐のシーンは」と思ったのですが、結局家福は高槻から妻の話を聞いて動揺するだけで、高槻自身はやはりあっけなく退場してしまいます。

そう、『ドライブ・マイ・カー』の物語は復讐したり何かを達成する物語じゃなかったんですよ。
虐待などの被害者達や、この厳しい時代に生きるすべての人々の心の痛みのディテールを、じーっと観察してゆく物語だったんです。

80〜90年代の演技法とは。

80〜90年代の映画・ドラマのほとんどは、苦境を打破して勝利する物語だったわけです。それは映画史的には60〜70年代のアメリカン・ニューシネマの絶望的な物語に飽き飽きした観客が『スター・ウォーズ』や『ロッキー』シリーズの「人生に勝利する物語」に熱狂したところから始まるわけですが。

つまり80〜90年代の主人公は強くならなければならなかった。努力して強くなって、敵を打ち負かす。敵を駆逐するか改心させる、そして世界を変えてゆく物語が主流だったわけです。
余談ですが、この「強くならなきゃ幻想」が数多くの鬱病患者を生んだのだとボクは思うのです・・・だって「強い」「弱い」って相対的なものなので、全員が強い状態ってありえないじゃないですか。なのに全員が強くなることを目指したら、そりゃ絶望したり人生に無力感を感じる人も増えますよねー。

そんなわけで、80〜90年代の俳優たちの演技法も、まさにこの時代の勇ましい空気に影響されたものでした。アメリカ式というかハリウッド式の「目的を軸にした人物造形法」です。
俳優たちは役の人物の「目的」にライドして、その「目的」を基準に小さな動作まで全ての演技プランを決めてゆきます。(これがキャラクター演技の基本構造です)
そしてその「目的」の前に次々と立ちふさがる「障害」を打ち砕いて行きます。それは恋愛モノの映画・ドラマなどでもそうで、自分の愛を受け入れてくれない恋する相手にまさに「アタック」してゆくわけです。愛を伝えようとする、愛を受け入れてもらおうとする。そして自分を愛してくれない相手を「変えようと」する。

このスタンスが例えば「僕は死にましぇん!あなたが好きだから!」みたいな感動の名シーンを生んだんですが・・・今の感覚からするとちょっと独り善がりで、相手の気持ちを配慮する気持ちが足りませんよね。でも当時はこのちょっと強引なアタックがロマンチックで、恋愛に勝利する秘訣だったんです。

「濱口メソッド」誕生。

というわけで「自分の役の『目的』を相手にぶつけて、打ち負かす」というのが80〜90年代の演技法だったわけで、この戦闘的でコミュニケーションを欠いた演技法は実は今でもハリウッド式を名乗る演技WSなどでは教えられているのですが・・・これを濱口竜介監督の「濱口メソッド」は禁じているんですね。

映画『ドライブ・マイ・カー』の中でも演者の感情を込めて演じようする岡田将生の芝居を、演出家の西島秀俊が止めるシーンがあります。

自分の演技プランを演じるアウトプット芝居ではなく、逆に相手や周囲の空気を感じてその中で生まれた衝動を頼りにテキストを演じるというインプットを起点にした芝居が推奨されていて、ある意味80〜90年型の芝居の真逆なんですよね。
この真逆の表現をするために編み出されたのが「濱口メソッド」と呼ばれるテクニックと言えるかもしれません。

なので『ドライブ・マイ・カー』の登場人物たちは、相手や状況を変えようとするのではなく、じっくりと周囲の環境を観察しながら様子を見ています。
そうして映画の最後で、家福とみさきは「正しく傷つくべきだった」に辿り着きます。強くある必要はなかった、弱くても良かったのだと。

このあたりが井筒監督とかにとっては腹立たしかったのかもしれませんね。攻撃されたら殴り返せよ!と。なに様子を見てるんだよ!ということなのかもしれません。心の痛みの描写がうじうじしてるだけに見えるだけなのかもしれないですね、80〜90年代式の物の「強さ」を基準とした見方からすると。

心の痛みを描写する演技。

でもこれって『ドライブ・マイ・カー』だけでなく、最近の傾向というか、多くの物語がそうなりつつあるのだと思います。先日最終回を迎えた、岡田惠和脚本のドラマ『ファイトソング』なんかもそうだったんですが、あれも目的を達成しようとする物語ではなく、登場人物たちの心の痛みを淡々と描写してゆく感動のドラマでした。
清原果耶の絶望の中で小さな幸せを噛み締める芝居が素晴らしかった。

『THE BATMAN』もテーマに復讐を掲げてはいますが、実際にはトラウマを抱えたブルース・ウェインがバットマンとして世界と関わりながらじっくりといろいろ感じてゆく、その心の痛みや迷いを描写する映画で、ラストは復讐じゃない場所に着地しましたよね。
ロバート・パティンソンの世界に対して動揺し続ける姿が瑞々しかったです。

「倍返し」をしてスカッとしても、それでは幸せになれないことは皆わかってるんです。

2020年代の俳優に求められているのは「強さ」を演じることではなく、「心の痛み」を演じることになってきているなあと感じます。
なぜなら観客である我々自身も、他人を押しのけて勝利する「強さ」よりも、もっと別のものを生活に求めるようになってきたからです。

『ドライブ・マイ・カー』の音の夢の話にヤツメウナギのエピソードが出てきますが、ヤツメウナギだったのは音だけではなく、家福も、みさきもそうだったのかもしれません。
魚に寄生せずに川底の石にかじりついて、魚たちが泳いでいる姿をじーっと眺めながら生きてゆく・・・そんな気分が現代に生きる我々にはあるのかもしれません。

そんな家福が、みさきが、映画のラストで解放されます。
韓国の街を愛車サーブで疾走するみさきのショットに「ドライブ・マイ・カー」という文字が表示された時、なにか救われるような、爽快な開放感がありましたよね。
この感覚は、世界共通なのかもしれません。

小林でび <でびノート☆彡>

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