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DETOURS STORY #6 Mahoさん

学生時代から母のケアをしてきて、常に自分のことは後回しで、症状を自覚してからSLEと診断されるまで17年かかったMahoさん。ミセスユニバースジャパン2024にも挑戦し、東京大会ではベストスピーチ賞受賞。様々な形でこれまでのご経験を発信されているMahoさんのDETOURS STORYをご紹介します。


プロフィール

心が決壊した母のケアを10歳から30年以上担っています。
17歳、全身性エリテマトーデスを発症。
厳密に言うと、ケアラーを自覚したこともつい数ヶ月前、発症から確定診断まで17年を要しました。学校生活、目の前にある母のケアで精一杯、自分のことは二の次、三の次だった背景によるものです。
現在、専業主婦一児の母。学校行事に積極的に参加。
愛のあるおせっかいママは、先生や子供たちにも顔を覚えて貰える幸せを噛み締めています。
幼少期から得意だった水泳、マラソンを活かしトライアスロン出場の夢がありトレーニング中。心身ともに絶好調であり、ミセスユニバース2024ファイナリストとして挑戦中。5キロ泳ぐ背中で攻めます。笑
どんな困難にも負けず、諦めなかったから今があることを体現します。

17歳の時の発症から34歳でSLEと確定診断されるまでの経緯を教えてください。

喉が乾きやすいこと、耳や手足のしもやけ、手指の関節痛、ソーセージ指の痛み、慢性的な疲労感、微熱と言った症状がありましたが、どれも我慢できてしまうものでした。家庭環境に問題があったこともあり、目の前のことに精一杯で自分の体のことは後回しにしていた背景があります。
症状がひどい時に、1人で皮膚科を受診し、適当な薬が処方され、診察は終わってしまいました。突然、あらゆる関節が痛くて立ち上がれなくなりやはり1人で整形外科を受診。当時ハードな部活に所属していたため、スポーツによる関節の酷使と言われました。2010年に1カ月続く微熱と倦怠感。風邪が治らないと内科クリニックを受診。
内科の先生からは、「嫌な予感しかないから今から採血をします。おそらく大学病院の血液内科を受診することになると思います。明日の朝には結果が出るから、私からの電話には必ず出てください。紹介状を書くから取りに来てもらって、そのまま受診になると思います」と言われました。
翌日その先生から電話があり、白血球の異常を指摘されました。先生が言っていた通り、そのまま大学病院の血液内科を受診し、骨髄検査を受けました。その結果、白血病ではないことを伝えられました。今までの症状から、自分で本を読んで調べてみて膠原病かもしれないと思っていたので「膠原病の可能性はありませんか?」と大学病院の先生に聞いたのですが、「なんの検査をしてほしいの?」と逆に質問されてしまいました。最終的に、胸部レントゲンを撮り、膠原病ではないと言われました。
その後、長時間日光を浴びて帰宅すると、顔から足の指先まで全身に紅斑が出ました。これが2012年のことです。顔が四角くなりボコボコ腫れてきたため、総合病院の皮膚科を受診したところ、通院による点滴治療を2週間続けて終了。なぜ採血検査もしなかったのだろう……とあとから疑問が残りました。

出産を希望していたため、のちに内科を受診し、「私は膠原病だと思うので必要な採血をして下さい」と医師に伝えました。採血検査の数値だけで、膠原病と分かりました。その総合病院の内科医からは、「紹介状書くからどの病院にする?」とだけ言われ、唖然としてしまいました。
一般内科は膠原病内科ではないからとの理由に納得し、自分で今の主治医を選び受診し、そこではシェーグレンの診断のみつきました。
シェーグレン症候群の経過観察をしている中で、血小板減少が見られ緊急入院することになったのです。そこで、抗リン脂質抗体症候群、特発性血小板減少性紫斑病、全身性エリテマトーデスの診断がつきました。
診断がついたのが2018年でしたので、17年もかかってしまいました。
やっぱり膠原病だったんだ。
もっと自分の体のことを丁寧に記録しておいたら、確定診断まで時間がかからなかっただろうとは思いました。
思い返してみると、自分の学校生活や友達のことだけを考える小学生が多い中、10歳から家事を担ってお母さんのやることもこなしてきました。
自分だけのことを考えるってどんな気持ちだろう。
こんな風に思い、周りの友達が幼く感じ、私だけ歳を取っているようでした。
ケアが当たり前の生活であり、1人で2人分生きてきて、辛い気持ちを感じないように麻痺させてきたので、診断されても落ち込むことはありませんでした。

これまで直面された・または直面されている最も大きな壁・困難はどのようなものですか?

結婚を考えたときに、母を障害物だと思いました。
「お母さんが居なければよかったのに。」
母と私の病気を受け入れてくれる主人と出会い、父へケアラーのバトンタッチをしました。
寛解状態のときに息子を授かり出産。
すぐに父が急逝し、赤ちゃんと母のダブルケアラーとなりました。
生後間もない息子を抱えて毎日走り回り、このときが一番しんどかったです。
その後やはり再燃し、1年に何度も入院しました。
病院では しんどい思いをしている人がたくさんいて、
大部屋では自分のことよりもほかの患者さんのことを見守っていた日々。
ママでもある患者さんと会った時に、子供の話をして意気投合しました。
その子はいつも笑顔だったけど、ある日無菌室から泣き声が聞こえてきました。
「いつも笑っているようにしているけど、本当はつらいんだ」、「泣いたらいいよ。」などと、LINEで会話をしていました。
待ちに待った退院日を迎え自宅に戻った数日後、私から笑顔が消えました。
入院中、一番仲良くしていた子が旅立ちました。
彼女はもともと、私と同じ血小板減少。
「私は死んじゃう病気なの?」
生きたくても生きられなかった、同じ歳の子供を持つ彼女の分まで強く生きると決めたのに、暗く長いトンネルを5年間彷徨い続けました。

5年間立ち直れなかった時期から、考え方が変わったきっかけはどのようなときでしたか?

何をしても気持ちが晴れなかった5年間に、終止符を打ちました。
きっかけは水泳。幼少期の自分を支えた水泳が、また私を救ってくれました。
水泳をしている時間は、自分だけの 、自分のための時間。
これが自分だ!自分が好きだったことを取り戻した気持ちでした。

心も体も軽くなり、30年ぶりに走り始めました。
マラソン大会の練習をする子どもたちと一緒に練習をして、こっそりレースにエントリー。
レースでは、学校の先生、子どもやその保護者方の声援が力となり、大好きだった自分を思い出しました。
5年越しの夢だった親子マラソンや、駅伝にも出場しました。
今を生きる姿を全力で子どもに見せると、子どもに笑顔が増えました。

それによって考え方が変わりましたか?どのように?

好きだった水泳やマラソンをしたら、大好きだった自分を思い出し、心身ともに元気になりました。
解決しないことは悩んでも変わらない。
これまでどんなに悲しくて、辛くて、憎しみの感情を抱いたことがあっても、母の笑顔が最大の力となっていました。
私の最大の魅力は笑顔。母からのギフト。
笑顔は、人の心に温かさを伝える力があると思います。
これから生きていく、子どもたちの笑顔を守りたい。
ヤングケアラーで育った私は、自分の夢を描くことがなく大人になったけれど、初めて夢を描くことができました。
過去を掘り下げることは苦しくなるだけでなく、未来を引き寄せることに繋がるのです。

ミセスユニバースジャパンの活動を通じて、どのような方に、何を伝えたいと思いますか?

ケアの人生の中でSLEを発症し、多くの困難もありました。
それでも今まで、たくさんの人に支えられてきたから自分の人生を諦めなかった。
人は人に生かされています。
あなたが存在するだけで必ず誰かの役に立っています。自分に起こったことはすべて力に変えていけるし、輝く笑顔に繋がります。
あなたの笑顔は誰かの光と勇気になります。


今回インタビューにご協力いただいたMahoさんのインスタグラムのリンクはこちら

ミセスユニバースジャパンへの挑戦のこと、マラソンや水泳のこと、さらに、今後はヤングケアラーについても発信していく活動をされるそうなので、ぜひ訪れてみてください!

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