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分類その4「社会や人間に焦点を当てた作品」

推理小説は、いや、小説というもの自体、我々を日常から開放し、ファンタジーに誘ってくれるものである。しかしながら、社会で揉まれた大人の読者には、単なるファンタジーでは物足りない事もあるのだ。
リアルではない。そんな事はありえない。都合が良すぎる。子供騙しだ。
ミステリ小説について良く聞かれる批判として、殺人などという社会的重大事を扱うにあたって、作家がそれをあまりにも軽視しているように思える点がある。
華麗な名探偵が登場し、お城のような豪邸で、大金持ちが大金持ちによって殺され、詩に見立てられた連続殺人で、密室のトリックを使って、アリバイを成立させ、最後に大広間に全員集まって、名探偵の推理が披露される。
そんな事は現実にはほぼ起こっていない。少なくとも頻繁には起きない。いや絶対に起きない(笑)。
実際の刑事や新聞記者達は、夫婦喧嘩とか不倫とかがエスカレートした痴情のもつれによる衝動的な殺人事件や、目先の金に目が眩んで犯罪に手を染める低所得者や、憎むべき対象を失って暴走する無差別通り魔などを相手にしている。日常的に起こる強盗や窃盗犯などは、推理小説に於いて常に偽装であったり濡れ衣であるだけで、真犯人である事はほぼありえないのである。
国際的組織犯罪や大資本が動く犯罪などはミステリ小説には向かない。そこで行われる殺人はプロの仕業であり、それは最早スパイ小説の分野である。

人間関係は、一見密接した関係のように見えるけれども、じつは、これほどおたがいの間が孤絶した状態は今日のほかない。そこでわれわれが、こういうものを描こうとしたとき、推理小説的な手法を用いることによって、はじめて、ほんとうの意味での不気味さ、恐ろしさが描かれるのではないかと思うのです。その意味で私は、これから、推理小説の枠はもっともっと広げられ、大勢の人たちが、この方法によって、現代を、そして、現代に生きる人間を描いてほしいと願うものであります。

松本清張「推理小説作法」より

松本清張という推理作家が、謎やトリックを全く用いなかったわけではないが、彼はそれよりも「人間」を描く事にこだわった。

「ゼロの焦点」「砂の器」はいずれも昭和を代表する傑作推理小説と評されるが、その真価は現代にも通じる「差別問題」に真っ向から向き合って、フィクションでありながら現実味のある殺人事件として、広く世に知らしめた事だろう。
犯人は自らの過去を隠蔽する為に殺人を犯す。我々の心を捉えて止まないのは、その悲しい動機だ。

映画「砂の器」より ©1974 松竹株式会社/橋本プロダクション

とは言え、推理小説の主題(テーマ)は、前回も述べたように、あくまでも謎解きという知的ゲームでなくてはならない。そういった意味で、松本清張作品はその領域を遥かに超えている。純粋に社会派文学作品として再評価されるべきであると思うのだ。

新しい作家の中では東野圭吾氏あたりが、ミステリ要素と人間ドラマのバランスが良い作品が多いように感じる。
東野作品を全て読んでいるわけではないのだが、「レイクサイド」あたりはミステリ要素強め。「白夜行」あたりは人間ドラマが強めという印象がある。
「麒麟の翼」あたりは、その両方をバランスよく纏めているという印象を持った。

大のオトナが読む小説としては、推理小説もやはり多少は社会派である必要があるのかも知れない。


2023.3.19

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