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〈自分はできている〉という決めつけこそ哲学対話で一番警戒すべきこと

これは、東京メタ哲学カフェ第36回開催後記です。

2020年2月16日(日)に開催された東京メタ哲学カフェで進行役をしました。テーマは「〈哲学プラクティスをダメにしている当事者〉としての自覚を持とう」です。

今回の企画は、2019年9月に同じく東京メタ哲学カフェで開催された「哲学相談の危険性について考える」に参加したことが大きな契機でした。この回では「哲学相談の危険性について考える」ことがテーマでありながら、重く考えすぎではないか、哲学対話に限界を感じているから新しい試みとして期待しているといった、「自分はこう思う」が次々と投じられ、肝心の〈哲学相談の危険性〉を掘り下げる発言がまったくない状態でした。

たとえば、提題者に質問をして答えてもらってもそこでおしまい。幾通りにも受け取れそうなことや、短い答えでは具体的なことがイメージできないこと、もっと細かく聞かなければつかめないことがあったはずなのに、答えてもらったことでやり取りが終わってしまうのです。自分が言いたいこと、発言したという事実、それに気を取られて「質問することが参加」「発言することが参加」のようになっていました。

当然ながら、提題者が何を指して危険性と言っているのかさえはっきりしません。そればかりか、直前に発言した人の1語に反応した思いが語られ「反応して思いついたことを連鎖的に発言し合う場」になっていたのです。誰一人、人の意見や質問を拾わない。ただ反応し、発言権を取り合うだけ。

そんな中、「哲学プラクティスは今後どうなっていくのか」ということを語りたいという意見が出ました。自分はそれが気になると。

私は、これを聞いた瞬間とても強い危機感を持ちました。

テーマも他の参加者もそっちのけで自分が思いついたことを好き放題に話し始め、何か関連がありそうにすれば何か真面目に考えていそうにすればそれが哲学対話であるかのように語られる中で、哲学プラクティスの未来を心配している、と。

『私たちがしていることこそ哲学プラクティスだ』

もちろん誰もそんなことは言っていません。しかし言ってはいなくとも、まさにそのような傲慢さを感じたのです。

哲学対話は哲学の知識がなくてもいい、予備知識はいらない、誰にでもできる、そのような初参加のハードルを下げるための言葉が、哲学の知識はなくてもいいのだ、人の話を邪魔しなければいいのだ、それだけで哲学対話という「意識の高い活動をしている」ことになるのだ…そんな風に考える人が増えたような気がしました。

本当にそうなのか、私にはわかりません。

しかし、このような「自分たちの行いを顧みない姿勢」のまま、これが哲学の実践だと語られてしまう状態を看過するわけにはいきません。

哲学カフェ、哲学対話、哲学プラクティスがどういうものであるべきかということには様々な意見があると思います。ですが少なくとも、今何について話しているかわからなくなってしまうとか、何もつかめていないまま話がどんどん変わってしまうという状態は、哲学でも対話でもないと思うのです。

一旦、立ち止まってよく考えてみる。

わからなければそのままにせず、もう少し詳しく聞いてみる。

自分の受け取りがずれていないか、相手に確認してみる。

一歩一歩確かめることを繰り返しながら、みんなで同じものについて一緒に考えていく。

それができないのはなぜか?

私が考えて出した答えは〈できているか確認しないから〉でした。反省というのは〈何について〉が明確でなければできません。チェックするポイントが不明確なら、できているもできていないもありません。

そこで今回は、哲学対話の場で大切にした方がよいことをチェックリストにして、自己採点するという企画にしました。

次回以降、当日使ったチェックリストとその項目の解説、私が何を考えて進行していたか、またその場ででてきた発言をどう捉えていたかについて書いていきます。

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探偵七つ道具を使い「こう思った」を「こう考えた」へ。 タフでなければ対話はできない。優しくなれなければ対話する資格がない。丁寧な対話ができないなら、哲学はもっとできない。
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