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今年もありがとうございました🎍@宇土市 住吉海岸公園

こんにちは。昨日大掃除も済ませたし、今日はちょっと海でも見に行こうかな〜ということで、宇土市の住吉海岸公園にふらっとドライブに行ってきました🚘穏やかな海を見てとても気分爽快になれましたので、今年最後の投稿として皆様にも共有させていただきます♪  住吉海岸公園にはインスタ映えスポットとして最近人気の「長部田海床路」と、熊本地震後に熊本復興プロジェクトとして建てられた「ジンベエ像」がありますので写真でご紹介します!おまけとして、帰りに立ち寄ってみた宇土市中心部にある「天草四郎ゆかりの里」の碑をご紹介します。(宇土市歴史散策レポートを年明けに予定しておりますが、今日住吉海岸公園から雲仙岳を眺めて、天草四郎に思いを馳せたので、四郎の石碑のみ今回フライングしてご紹介します。)

※今日訪れた場所の位置情報はこちらです↓

それては早速、行ってみましょう🏃‍♀️

住吉海岸公園

とりあえず駐車場から撮った1枚。

本当は宇土半島の先端の三角西港まで行こうと思ったのですが、かなりの渋滞で断念💧写真奥の三角・天草方面に続く国道57号が大渋滞中です。

西側の雲仙普賢岳を望むの図。

ここから雲仙普賢岳を見るのが住吉海岸公園に立ち寄った1番の目的だったのですが、今日は霞んでいてよく見えない😢天気のいい日は島原の町まで見えて、本当に近くに感じるんですよ!天草・島原の乱の際は天草と島原の一揆勢は有明海を船で行き来していたことでしょう🚣

長部田海床路

海岸の「長部田海床路」のフォトフレーム板

37,404件って、インスタに取り上げられた件数かな?確かにすごか!(すごいの熊本弁)
右手に人が写っている海の中の道が長部田海床路になりますので、近くまで降りてみましょう👟

年末休みもあり人がたくさん!本当に人気のスポットなんでしょうね〜(←インスタやらないから知らなかった人)

人がいない頃合いを見計らって、波打ち際まで道を進む。干潮時は沖合に続く電信柱に沿って道が出現します。

海床路とは潮が引いた時だけ現れる道のことで、もともとは有明海でノリ養殖や採貝を営む漁業者のために建設されたものだそうです。24本の電柱が立ち並ぶ約1キロの海の道。満潮時は海の中に電柱が立ち並ぶ不思議な光景が広がり、『千と千尋の神隠し』の世界に例えられるなど、インスタ映えスポットとして話題になっているとのことです✨そういえば、『充電させてもらえませんか』の番組で出川さん達が立ち寄ってたのもここだった事を思い出しましたよ💡ちょうど海床路の先に雲仙普賢岳が見えるのですが、今日は霞がかっていてよく見えないのが本当に残念😢電柱と電柱の間に、うっすらとシルエットは見えますよね⛰私はふと、モーセの十戒みたいに天草四郎時貞が両手を上げると海の中から道が出現し、その道を通って彼が島原の原城まで渡っていく美しいイメージが浮かんできました✨

ジンベエ像

海床路の向かって右側(東側)にある熊本地震の復興プロジェクトの一環として建てられたワンピースのジンベエ像。立派な門松にビックリ‼️おめでたい雰囲気がかなり映えますよね🎍像の前も人だかりが出来てましたが、人が引いたところを見計らってパチリ📸

向かいの駐車場側にある説明板

そろそろお昼時。ジンベエ像の更に東側に良さげなベンチがありましたので、前もって買っておいたコンビニランチをここでいただくことにします↓

北側の海を見ながらランチ🍴

画面奥遠方に見える高い山は熊本市内にある金峰山です。画面手前右手には漁港がありまして、船のポンポンポンという音がし、背後からはJR天草三角線のガタンゴトンという電車の音がしてとっても長閑で平和な雰囲気です。今日は暖かくて、海を見ながらのランチは最高でした!

いっぷくして落ち着いたところで、熊本方面に帰ります。途中、宇土市中心部にある、天草四郎が住んでいたとされる町に立つ石碑に立ち寄ったので、以下ご紹介します。

天草四郎ゆかりの里

天草四郎ゆかりの里の石碑は、宇土市旭町の何の変哲もない住宅街の空き地にひっそりとたっていました。以下、宇土市教育委員会の案内板を引用します。

       天草四郎ゆかりの里
 寛永14年(西暦1637)に起こった天草・島原の乱の首領となった天草四郎時貞ゆかりの地であり、この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えられる。曹洞禅宗の如来寺(現、宇土市岩古曽町)で学び、長崎へは頻繁に行き来していたようである。
 天草・島原の乱は、キリシタン弾圧と厳しい年貢の取り立てに対して起こったものであり、天草・島原の農民約三万七千人が幕府側十万余人に対して果敢に戦ったもので、原城の攻防は約九十日間に及んだ。
 天草四郎はキリシタン大名・小西行長の遺臣であった益田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。首領となったのは十六才の時であり、江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捕らえられ、原城に立て籠っていた一揆軍に対して、降伏を促すための人質となった。

天草四郎は熊本県の歴史上の人物として有名ですが、美少年像や伝説チックな逸話が先行して、私も実像がよく分かっておりません。天草四郎が宇土に住んでいたことも宇土散策して初めて知りました。天草四郎や島原の乱についても将来もう少し勉強して、史跡紹介とともに記事にできたらいいなと思っています。

今年の総括と来年の投稿予定について

今年は5月から九州南北朝の史跡巡りレポートを投稿し始め、菊池編と八代編を書き終えました。合間には別の時代の地元熊本の史跡も紹介して参りました。来年も引き続き、九州南北朝時代の史跡と、その他熊本の史跡を半々くらいの割合で投稿していきたいと考えています。年明けの連載は、人吉市か宇土市の散策レポートを予定しています。宇土市は安土桃山時代、小西行長が本城を置いた地であると同時に、南北朝時代は一時西征府が置かれた地なので、連載のうち一回分は「九州南北朝の史跡巡りシリーズ」でまとめたいと考えています。

さいごに、今年は記事を読んでいただき本当にありがとうございました!複数の方から、熊本に旅行してみたいとコメントいただき、嬉しく励みになりました✨それでは、良いお年をお迎え下さい&来年も宜しくお願い致します🙇‍♀️

アクセス情報はこちらから↓


本日渋滞で行けなかった三角西港の記事はこちら↓


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