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白村江後の太宰府防衛の一角 古代山城 鞠智城 【復元建物編】

こんにちは。今回は先日訪れた国史跡、鞠智(きくち)城跡の散策レポート1回目です!鞠智城は熊本県北部に位置する7世紀に築城された古代山城です。周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもつ広大な山城で、現在は歴史公園として整備されています。季節がいい時期は、公園内の芝生で親子連れが遊ぶ姿が見られ、地域の憩いの場となっています。鞠智城の詳しい説明は、併設されている資料館『温故創生館』の展示パネルより引用させていただきます↓

鞠智城は7世紀後半、今から約1300年前に、大和朝廷によって築城された古代山城です。
この当時、朝鮮半島では、「高句麗(こうくり)」、「百済(くだら)」、「新羅(しらぎ)」の三国の争いに、中国の「唐」が加わり、社会的な緊張が続いていました。
660年、唐と新羅の連合軍によって、日本と友好関係にあった百済が滅ぼされます。日本は百済の復興を支援するために援軍を送り込みますが、
663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗し、百済の救援に失敗しました。その結果、今度は唐と新羅による日本侵攻の脅威に、直接対処せざるを得ない情勢になります。
そこで大和朝廷は、西日本を中心に防衛体制を形成します。九州では最前線基地として金田城(長崎県対馬)が築城され、太宰府を防衛するために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県・福岡県)が築かれます。それらの背後に位置する鞠智城は、防衛施設であったと同時に、食料や武器などを前線へ供給するための兵站基地であったと考えられています。しかし、結果として、唐と新羅による日本への侵攻はありませんでした。鞠智城はその後、役所的な役割をもつ施設や、食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。

鞠智城は百済の亡命貴族の指導で築かれたと考えられており、朝鮮半島の様式が随所に見られて古代ロマンが感じられる史跡です❣️鞠智城跡からは、八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡、百済系銅像菩薩立像・木簡などの貴重な遺物が出土した貯水池跡、3箇所の城門跡、土塁跡などの遺構が検出されており、それぞれ復元されていたり、案内板が設置されていたりします。今回も順番に散策形式でご紹介していきたいと思いますので、宜しければお付き合いください☺️

散策ルート紹介

今回【復元建物編】の散策ルートをブルーラインで示しています。(小さくて見にくいですが💦)地図は資料館でいただいたパンフレット裏面を拝借しています。

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今回は、長者原エリアに集中している復元建物を鼓楼→米倉→兵舎→板倉の順で見学し、展望台のある灰塚まで散策したレポートです。では、早速行ってみましょう❗️

駐車場から鞠智城のシンボル、八角形の鼓楼に向かいます。冬だし人少ないかな〜と思ってやってきましたが、何やら賑やかな声が聞こえます👂

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なんと❗️ちょうどイメージキャラクターの「ころう君」の巡回日と巡回時刻に重なった様です😆
密かに会えたらいいなーと思ってたのですが、凄くラッキーです🌟(会いたい方は調べてから行った方が確実です。)

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超可愛くないですか⁉️個人的に防人(さきもり)をイメージしたゆるキャラ「ころう君」めっちゃツボなんですが😆😻💕

ころう君の巡回を見送ってから、じっくり鼓楼を見学します。

鞠智城のシンボルタワー 鼓楼

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鞠智城跡では、2棟の八角形建物跡が見つかっています。写真の八角形鼓楼(復元)は鞠智城内で最も高い建物で、三層造りの最上階に置いた太鼓を使って連絡をしていたと考えられています。最上階で接合している中心部に通る芯柱が振り子の様に地震の揺れを吸収して倒壊を防ぐ建築技術が採用されているそうですよ。建物内部の写真がこれです(一層部)↓

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そして、見てください♪ 美しい屋根瓦✨

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軒丸瓦(のきまるがわら)には蓮の花の模様が施されています。これは、単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)と呼ばれるもので、朝鮮半島の様式を受け継いでいると考えられているそうです。周辺でこのような瓦がたくさん出土していることから、瓦葺で復元してあります。

このような八角形建物跡は、鞠智城以外の国内の古代山城では例を見ないそうですが、韓国の二聖(イーソン)山城でも見つかっており、朝鮮半島と鞠智城の深い関わりを示すものと言われているそうです。大陸との交流が盛んだった古代日本。ロマンを感じますよね😊

さて、次に、鼓楼の向かって左手に見えます米倉に行ってみましょう!

正倉院と同じ校倉造り 米倉

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この建物(復元)は、高床式・校倉造り・ねずみ返しなどの、当時の米倉の典型的な特徴が再現されています。確かに奈良の正倉院と雰囲気が似ていますよね❗️周囲からは多量の炭化米と瓦が出土しているそうです。

床端のねずみ返し↓🐀

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さて、次は防人達が暮らした兵舎に向かいます👟学校で万葉集の防人の歌を習ってから、個人的に防人に興味があるんですよね✨

防人の生活の場 兵舎

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この建物は防人達が暮らしていた兵舎(復元)で、板葺屋根・土壁・土間造りが特徴です。同じ時期に建てられたと考えられる兵舎が、2棟隣り合わせて見つかっていることから、100人前後の防人が駐屯していたと考えられています。

兵舎の中は、防人関連のパネルや模型が展示されていて、勉強になります🧐

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大和朝廷では、古代山城の築城とあわせて、防人(兵士)の配備と烽(のろし)による連絡網の整備を進めました。防人は白村江の戦いの後に、北部九州の防衛のために置かれた兵士で、主に東国(現在の関東地方や東海地方など)で徴兵され、九州の各地で任務に当たりました。日本最古の歌集である「万葉集」には、つらい任務に就く防人が歌った歌、残された家族の歌が数多く収められています。
烽は、合図や警報のために火をもやし、煙を高く上げるもので、古くから使われた連絡手段です。古代山城の時代よりやや後になりますが、8世紀中頃に書かれた法令には、のろし台を置く間隔や、のろしの上げ方のルールが細かく定められています。

因みに私が学校で習って感銘を受けた防人の歌は、確か下記のものです。

韓衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして
(私の衣の袖に取り付いて泣く子供達を、置いてここまで来てしまったよ、母親がいないというのに)             〜万葉集より〜

当時子供ながらに、凄く悲しい気持ちでいっぱいになりました。今でも泣きそうになります😭
結局、唐・新羅が攻めてくることはなかったのですが、故郷を遠く離れて、九州までの旅路も、勤務地に着いてからも食料は自給自足しなければならず、過酷な任務だったことに違いはありません。やっぱりいつの時代も徴兵制は辛いですね。古代の防人達が無事任期を終えて家族の元に帰り着いたことを願ってやみません。

ところで、この防人の歌に関して長年疑問に思っていたことがあるんです。防人に徴兵された人たちって普通のお百姓さん達だと思ってるんですが、古代日本の一般人って、こんな素晴らしい歌を詠める教養を身につけていたのでしょうか。万葉集には防人とその家族の歌が98首も収められてるんですよ、防人の一部に特殊な教養人がいた訳ではなく、皆んな詠めたって感じですよね?まさか更に歌を詠むだけでなく、書けるほどの識字率だったんでしょうか?そうだとしたら古代日本人メチャクチャ凄くないですか⁉️謎です〜😵更にですよ、万葉集を編纂したのは政権側の貴族達な訳じゃないですか、その人達が、身分の低い防人の歌を、それもほとんどが徴兵制に不満感ありありの内容の歌を98首も載せているんですよね。不思議じゃないですか〜🧐(ここら辺の事情をご存知の方がいらっしゃいましたら是非ご教示下さい。)そういうおおらかさも含めて、古代〜奈良時代、好きなんですよね🥰

兵舎には他に、各地の古代山城の配置模型が置いてあり、福岡の大野城から鞠智城までの、のろしリレーの様子が表されています↓これ、面白い❗️

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さて、防人の話でかなり引っ張ってしまいましたが、次に、板倉に向かいます。

鞠智城の武器庫 板倉

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この建物は、武器や武具などを保管するための倉庫と考えられています。 復元された「板倉」は、茅葺(かやぶ)きの屋根、側柱に彫った溝に板を落とし込んで壁を造る「落としはめ技法」など、古代の技が使用されているそうです。

さて、それでは本記事最後のスポットである灰塚展望所に向かいます👟灰塚はその名前から、のろし台の跡と推測されています。

途中、朝鮮様式の綺麗な休憩所もありますよ✨
(長者山展望広場休憩所:古代建築の意匠を採り入れたもので、復元建物ではないそう。)

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休憩所のある長者山から灰塚まで、長い階段が伸びています。絶景かな〜😚

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古代ののろし台の跡 灰塚

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丘の中央には、方向を示す石のモニュメントが設置されています↓(のろし台をイメージしたものかも。)太宰府政庁跡は画面上、北西方向です。

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太宰府方面を望んだ写真が以下です↓
福岡・佐賀方面から上がるのろし、見えるかな〜

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今回の散策はここまでとなります。次回の記事では向かって東側にある、百済系銅造菩薩立像が出土した、貯水池跡に向かいます🏃‍♀️

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まとめ

今回の記事では、復元された建物を中心にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?今回の散策ルートを歩くだけでもいい運動になりますし、広大な敷地のため近代的な建物は視界に入らず、古代の景色そのままで古代にタイムスリップした気分に浸れますよ♪ただ、史跡ハンターとしてはここだけで終わるわけには参りません😤城域西側外縁に設置されている3つの城門跡を歩き、資料館も全ての展示パネルを読み、写真を激写してきましたので、次回以降の記事でご紹介したいと思います。(これから執筆開始しますので、時間かかるかもしれませんが💦因みに鞠智城跡も資料館も入場料無料、写真撮影可なんですよ!太っ腹〜、ありがたや〜🤩)

《次回以降の予定》

・古代山城 鞠智城
【出土した百済系銅造菩薩立像編】(仮題)
貯水池跡から出土した手のひらサイズの百済系菩薩像から、白村江の戦い前後の様子を妄想したいと思います。

・古代山城 鞠智城【城門巡り編】(仮題)
城域西端の城門跡を巡り、ワイルドな古代山城の景色を堪能したいと思います。

宜しければまたお付き合い下さい🤗

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最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

参考HP:歴史公園鞠智城 温故創生館HP
             (アクセス情報もコチラから)
https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/index.php

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