細川藩の軍港&年貢米の集積地🌾 旧河港町 川尻散策日記【西南戦争ゆかりの跡地を巡る編】
こんにちは。今回は熊本市南区の川尻散策レポート3回目です。川尻の町は有明海に注ぐ緑川水系の河口に位置し、鎌倉時代には貿易港・水軍の拠点地として栄え、江戸時代には細川藩の軍港及び年貢米の集積/積出港として栄えた河港町です。川尻の詳しい説明は、メイン通り沿いにある『くまもと工芸会館』の前の案内板から引用させて頂きます↓
川尻は、西南戦争の際、西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本鎮台攻略の拠点として本営を構えた町でもあります。3回目の今回は、薩摩軍が本営を置いた商家や、野戦病院となった寺院など、西南戦争ゆかりのスポットをいつもの散策実況形式でご紹介していきたいと思います。
散策ルート紹介
今回の散策ルートをオレンジのラインで示しています。(小さくて見にくいですが💦)地図は同じく『くまもと工芸会館』の前の案内板から拝借しています。
前回の御船手渡し場跡から元来た道を戻り、薩摩軍本営跡→町奉行所跡→川尻の治安維持の為に組織された自警団・鎮撫隊本営跡→薩摩軍の野戦病院が置かれた延寿寺の順に散策します。途中の素敵な風景もご紹介しますね。それでは行ってみましょう!
国指定史跡が並ぶ江戸時代のメインロードを引き返して東に向かって歩いていると、左手に薩摩軍本営が置かれたとの説もある浄土真宗のお寺、泰養寺があります。
石塀が趣がありますね✨そして、『ただ「今」を生きる』の標語。心に沁みます>_<
さらに先に進むと、米蔵の先に町奉行所跡が見えてきますが、便宜上、奉行所より少し先にある、薩摩軍本営が置かれた今村邸を先にご紹介します。
今村邸(薩摩軍本営跡)
この住宅は江戸末期の建物で、明治10年(1877)の西南戦争時には塩飽屋が所有しており、その後大嶋屋(瑞鷹酒造)、吉村家、今村家と渡り、現在も今村家の住居として使われているそうです。保存状態がよく、外城繁栄時の町屋として貴重であり、
平成7年に熊本市の景観形成建造物に指定され、平成10年には国の登録有形文化財に登録されています。木製の出格子がカッコイイですね↓
西南戦争の際には、商家だったこの邸宅に薩摩軍の本陣が置かれたと伝えられており、邸宅の前に「明治十年戦役南洲翁本営跡」という記念碑が建てられています。
なお、薩摩軍の本陣が置かれたと伝わる場所は今村邸以外にも先程の泰養寺やこれから訪れる延寿寺など数カ所あります。薩摩軍の到着直後、川尻は1万5000人余りの薩摩軍兵士で埋め尽くされたそうですから、西郷さんが居る本陣以外にも陣が置かれていたのかも知れませんね。
それでは次に道を少し西に戻って、今は川尻公会堂が建っている、町奉行所跡に向かいます。
町奉行所跡
道沿いに、文字の金張りが剥がれて読みにくい案内板が立っているのですが、私的には川尻散策で最も心を動かされた内容の案内板でした。(綺麗に直して欲しい💦)下記に全部をご紹介します。
この案内板を読んで、上田休とはどのような人物だったのか、そして、川尻住民の為に尽くした名奉行・上田休が何故処刑されなければならなかったのかもっと知りたくなったので、調べました。(ネットでですが。でも上田休を取り上げている記事自体少なかったです。)以下、くまもと工芸会館HPと肥後細川藩拾遺サイトを中心に、調べた内容を要約します↓
【上田休について】
薩摩軍を助ける意図はなく、中立の立場で町民を守ろうとしただけだった事はよく調べれば分かるだろうに、取り調べた役人達はなんて浅はかなのだろうと最初は思っていたのですが、肥後細川藩拾遺サイトの中で郷土史研究家の鈴木喬さんは下記のように述べられています↓
上田休さんについての説明は以上です。名前を「休」と改め隠居していた彼が、川尻町民の困窮を見かねて立ち上がり、当時の最善の策を講じ町民を救ったにも関わらず処刑されてしまったことは、怒りと悲しみを禁じ得ません。彼の死を知った当時の川尻の人達の悲しみは察するに余りあります。亡くなった後も救世主として代々川尻の人達の心に生き続けるであろうことが、せめてもの慰めと思うしかありません😢
それでは次に、上田休が結成した川尻鎮撫隊本営跡に向かいます👟道を暫く東に進むと、江戸時代、小路町筋と呼ばれていた可愛らしい小路と交差します。そこから左折して小路に入ります。
左折するとすぐ右手、交差点からも見える距離に、本陣跡(小路町の迎賓館跡)の木標が立っています↓
この場所には、薩摩藩と相良藩の参勤交代のとき藩主が宿泊される本陣(屋敷)があったそうですということは、この道もしくは先程の奉行所跡の前の通りが薩摩街道なのかと思ったのですが、どこにも薩摩街道の案内書は無かったです。帰りに寄った和菓子屋の店主さんに聞いてみたところ、ここら辺ではなく、もう少し先だという事でした川尻の町には直接薩摩街道は通ってなかったけど、薩摩街道のすぐ脇に位置した町だったのでしょうかね🧐
少し進むと無田川という運河跡を渡ります。運河の中には「疫病退治」の灯籠が掲げられていました↓
運河を渡った先は川尻小学校で、小学校の敷地内、校門のすぐ脇に、川尻鎮撫隊本営跡の石碑がひっそりと立っています。
川尻鎮撫隊本営跡
最後の目的地、延寿寺に向かうため、川尻の現在のメインロード県道50号線に出ますが、その手前に案内板に記載があった裏無田川という細い運河を渡ります。橋の袂に「高札橋」と書かれた古い石柱(親柱?)があります↓
そして県道50号に出たところで、高札場と二里木跡の木標が立っています↓
説明書には、川尻は江戸時代、熊本と鹿児島を結んだ薩摩街道沿いにあり、熊本城下から二里(約8km)地点に当たっていたと書いてあります。だから薩摩軍の拠点となったのでしょうね。県道50号線を南に進み、瑞鷹建物群・船着場跡・奉行所跡がある先程の江戸時代のメインロードとの交差点まで戻ったら、今度は東に左折します。
暫く歩いていると、目的地の延寿寺の手前に白い長塀と古い山門を持つ立派な日蓮宗のお寺、法宣寺が現れます。
慶長14年(1609)創建で、加藤清正の正室、清浄院の供養塔があるそうです。川尻は本当に由緒ある古いお寺が多いです✨そして道の先正面に見えるのが、薩摩軍の野戦病院・仮墓地が置かれた延寿寺です↓
延寿寺
延寿寺は鎌倉時代に河尻氏が建立した天台宗寺院で、西南戦争の際には薩摩軍の野戦病院となり、薩軍戦没者の仮の埋葬地となったお寺です。敷地に入ってすぐ左側に、薩軍本営並野戦病院跡の大きな石碑が立っています↓
そして正面の門の脇に、西南の役の案内板があります↓ 下にその説明書を抜き出して載せますね。
そして案内板には、熊本城攻防戦の薩摩軍の進軍経路が詳細に記された地図も掲載されていました↓
桐野利秋隊古町方面から800人、村田新八隊横手方面から600人、池上四郎隊坪井京町方面から1700人・・・熊本城周辺は現在も熊本市の中心地です。進軍経路に当たっている町は、私もよく知っている&出かける場所ですので、この図を見た時は正面、背筋が凍る思いがしました。城下町の人達が事前に安全な場所に逃げていたことを願います。
そして寺の敷地の北側に、案内板に記載のあった西南役薩軍戦没者慰霊碑があります。
ここでまた疑問が湧いてきます。川尻にはたくさんのお寺があります。きっと薩摩軍に敷地を提供するかしないかで各お寺も葛藤があったものと想像します。野戦病院が置かれたのもこのお寺だけではないようですが、なぜこの延寿寺が薩軍野戦病院兼仮墓地として有名になったのでしょうか。天台宗九州西教区のHPにその理由が書かれていたので、一部下記に引用させていただきます。
若い住職さんの一大決心があったのですね😣危険を冒してでも敗戦した薩摩軍の戦死者を弔ったのもとても尊い行いですね😭
石碑に手を合わせて、戻ろうと振り返ると、石碑の左側に屏風型の綺麗な石のモニュメントがあるのに気付きました。
これは延寿寺に当時埋葬された薩軍戦没者828名の名前が刻まれた銘碑です。慰霊祭100周年を記念して2015年に建立されたそうですが、除幕式には西郷隆盛の子孫の方や鹿児島県知事、宮崎県知事も参列したそうです。
こうやって戦没者一人一人のお名前が列記されていると、西南戦争の悲惨さを感じますね。
石碑から延寿寺の境内を見渡した景色です↓
当時はおそらくこの敷地いっぱいに負傷者が運ばれて騒然とした雰囲気だったのでしょうね😢今の静かで穏やかな境内からは想像しにくいですが。
因みに熊本県内には、西南戦争時の古戦場や薩摩軍の進軍・敗走経路に、官軍墓地や薩軍墓地、そして陣跡の石碑や野戦病院となったと伝わる寺などが点在しています。熊本人からすれば時々出くわす光景なので、これからも機会があればご紹介していきたいと思います。
まとめ
川尻散策日記の記事は今回で終わりてす。【西南戦争ゆかりの跡地を巡る編】いかがだったでしょうか?西南戦争がつい最近実際にあった戦争としてリアルに感じられたのではないかと思います。ここからは私の勝手な想像ですが、川尻は薩摩街道沿いにあり参勤交代などでも薩摩藩士の往来も多かった、そしてたくさんのお金を落としてくれただろうし、町の人達は西郷さんや他の藩士とも懇意だったかもしれませんよね。それが明治維新後、今度は物々しく武装して町を占拠し、川尻の人達からすればどうしてこんな事になったのだろうかと、混乱し動揺したのではないかと思います。薩摩軍にも知り合いがいたかもしれませんし同情の念があったかもしれませんね。西南戦争関連跡地を散策していると、急速に時勢が変わって戦に巻き込まれた川尻の人達の動揺と葛藤が時を超えて伝わってくるようでした。
それからやはり、散策中も記事を書いている時も、今海外で起こっている戦争の事を思い出さずにはいられませんでした。時代が違っても国が違っても、戦争で一般の人々が感じる混乱や動揺は同じものではないかと感じました。一刻も早く戦争が終わることを願います。
最後は今回の散策で一番印象に残った上田休さんで締めたいと思います。歴史の教科書にもWikipediaにも載っていませんが、西南戦争の真のヒーローは上田休さんだと思いました。教科書や小説にも取り上げられない地元の英雄や、戦乱に巻き込まれた地元の人達の心情というのは、やはり現地を散策してみないと分からないものだと感じました。今後もそういう観点で史跡散策して、皆様に伝わる記事が書けたらいいなと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【引用・参考HP】
熊本市観光ガイド(アクセス情報はこちらから)
肥後細川藩拾遺サイト
http://www.shinshindoh.com/yasumi-suzuki.html
熊本経済オンライン
天台宗九州西教区HP
熊本市ホームページ
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