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細川藩の軍港&年貢米の集積地🌾 旧河港町 川尻散策日記【西南戦争ゆかりの跡地を巡る編】

こんにちは。今回は熊本市南区の川尻散策レポート3回目です。川尻の町は有明海に注ぐ緑川水系の河口に位置し、鎌倉時代には貿易港・水軍の拠点地として栄え、江戸時代には細川藩の軍港及び年貢米の集積/積出港として栄えた河港町です。川尻の詳しい説明は、メイン通り沿いにある『くまもと工芸会館』の前の案内板から引用させて頂きます↓

川尻は、鎌倉時代(1200年頃)に地頭職として下向した河尻三郎実明が河尻城を構えたのが始まりとされています。加藤清正時代の数々の治水事業を経て、細川藩時代には年貢米の集積地として、また軍港として栄え肥後5か町に数えられました。町は、熊本城下へ年貢米を運ぶ内陸水路が発達、加瀬川対岸では造船や船の修理が行われ、川尻城址周辺には、奉行所や御茶屋、その近くには年貢米を収納する米蔵郡(東蔵、中蔵、西蔵の各3棟)がありました。町内は、武家屋敷をはじめ、船関係の船頭町、鍛冶屋・桶屋などの職人町、商いの商家が立ち並ぶ町屋つくりとなっており、その街並みは今も垣間見ることができます。

川尻は、西南戦争の際、西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本鎮台攻略の拠点として本営を構えた町でもあります。3回目の今回は、薩摩軍が本営を置いた商家や、野戦病院となった寺院など、西南戦争ゆかりのスポットをいつもの散策実況形式でご紹介していきたいと思います。

散策ルート紹介

今回の散策ルートをオレンジのラインで示しています。(小さくて見にくいですが💦)地図は同じく『くまもと工芸会館』の前の案内板から拝借しています。

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前回の御船手渡し場跡から元来た道を戻り、薩摩軍本営跡→町奉行所跡→川尻の治安維持の為に組織された自警団・鎮撫隊本営跡→薩摩軍の野戦病院が置かれた延寿寺の順に散策します。途中の素敵な風景もご紹介しますね。それでは行ってみましょう!

国指定史跡が並ぶ江戸時代のメインロードを引き返して東に向かって歩いていると、左手に薩摩軍本営が置かれたとの説もある浄土真宗のお寺、泰養寺があります。

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石塀が趣がありますね✨そして、『ただ「今」を生きる』の標語。心に沁みます>_<

さらに先に進むと、米蔵の先に町奉行所跡が見えてきますが、便宜上、奉行所より少し先にある、薩摩軍本営が置かれた今村邸を先にご紹介します。

今村邸(薩摩軍本営跡)

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この住宅は江戸末期の建物で、明治10年(1877)の西南戦争時には塩飽屋が所有しており、その後大嶋屋(瑞鷹酒造)、吉村家、今村家と渡り、現在も今村家の住居として使われているそうです。保存状態がよく、外城繁栄時の町屋として貴重であり、
平成7年に熊本市の景観形成建造物に指定され、平成10年には国の登録有形文化財に登録されています。木製の出格子がカッコイイですね↓

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西南戦争の際には、商家だったこの邸宅に薩摩軍の本陣が置かれたと伝えられており、邸宅の前に「明治十年戦役南洲翁本営跡」という記念碑が建てられています。

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西郷隆盛ら明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の内戦となったのが西南戦争です。
 明治10年2月15日大雪の中、鹿児島を出発した薩軍は、2月20日先鋒隊が川尻に到着し、翌21日には西郷も到着しました。西郷はこの地に宿営し、ここに「新政大総督、征伐大元帥西郷吉之介」の表札をかかげ、熊本城攻撃のための本陣を置きました。       〜現地案内板より〜

なお、薩摩軍の本陣が置かれたと伝わる場所は今村邸以外にも先程の泰養寺やこれから訪れる延寿寺など数カ所あります。薩摩軍の到着直後、川尻は1万5000人余りの薩摩軍兵士で埋め尽くされたそうですから、西郷さんが居る本陣以外にも陣が置かれていたのかも知れませんね。

それでは次に道を少し西に戻って、今は川尻公会堂が建っている、町奉行所跡に向かいます。

町奉行所跡

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道沿いに、文字の金張りが剥がれて読みにくい案内板が立っているのですが、私的には川尻散策で最も心を動かされた内容の案内板でした。(綺麗に直して欲しい💦)下記に全部をご紹介します。

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    上田休(やすみ)と町奉行所跡
上田休は、天保元年(1830)細川家の家臣上田家の嫡男として、現在の熊本市桜町付近で生まれました。
 藩校「時習館」で英才の誉れ高かった上田は、元治元年(1864)京都留守居役に任命され、折り合いの悪かった幕府と朝廷の関係修復に努めました。その後、川尻奉行となり、誠実・公平を旨として住民から信頼され、川尻の繁栄に尽くしました。明治維新後、玉名郡代となりましたが、学校党と実学党の確執の中で野に下りました。
 明治10年(1877)西南戦争の時、薩軍が川尻に本営を置きます。上田は住民の困苦を見かね、鎮撫隊を結成して治安維持に努めました。その際、官軍にも薩軍にも属せず、局外中立に徹し、住民を守りました。しかし、この局外中立という考えは理解されず、薩軍に味方したという罪を着せられて官軍により死刑に処せられました。
 この辺りは、川尻奉行所のあったところですが、上田休の名は、今日でも救世主として多くの人々に語り継がれています。〜現地案内板より〜

この案内板を読んで、上田休とはどのような人物だったのか、そして、川尻住民の為に尽くした名奉行・上田休が何故処刑されなければならなかったのかもっと知りたくなったので、調べました。(ネットでですが。でも上田休を取り上げている記事自体少なかったです。)以下、くまもと工芸会館HPと肥後細川藩拾遺サイトを中心に、調べた内容を要約します↓

【上田休について】

1830年、細川家家臣上田家に生まれる。9歳で藩校時習館に入り、4回も賞詞を受けるなど英才の誉れが高かった。
1856年、父の跡目を継いで久兵衛と名乗る。
1864年8月、禁門の変直後に京都留守居役として上洛。細川藩は幕府と親しく公武合体派であったため、久兵衛は幕府と朝廷の斡旋に奔走、久兵衛の誠意は双方から認められ、公武一和の実をあげ、細川藩の一家臣でありながら、朝廷・幕府から相談を受けるほどの信頼を得ていた。
1865年11月、藩より帰国の命が下り、12月に帰藩後川尻奉行に任じられた。川尻町奉行は二年余の期間であったが、その采配に町民は全幅の信頼を抱いた。当時、川尻の町は洪水や加勢川堤防の決壊に悩まされていたが、久兵衛は大雨になれば町奉行所前に高張提灯を立てて町民の通報に備え、自らは川筋の警戒の任に当たるなど率先して町の安全に力を尽くした。また、お年寄りを労ったり、町役人の労を労ったりして、名奉行として慕われていた。
1868年(明治元年)川尻町奉行の後、藩の奉行副役になるなど学校党の重鎮として活躍を続けたが、藩主(この時は藩知事)が変わると藩政は学校党(保守派)から実学党(改革派)へと一気に変わっていったため、野に下った久兵衛は名を休と改め、上田家の旧知行地半田村に塾を開き隠棲した。
1877年(明治十年)2月西南戦争が勃発。熊本城は包囲され、全県下が無警察状態となった。川尻は熊本に近い海陸の要衝だったため薩摩軍の本営が置かれ、物資の徴発・夫役の強制が行われた。さらに役場の職員は逃亡して脱監の囚人が横行し、町民の不安は極点に達した。思いあまった川尻町民の数十人が半田を訪れ、上田の出馬を懇請、上田の門弟や近在の士族達も去就に迷って半田村を訪れた。上田は慎重熟慮の末、門弟と長子を伴い川尻に赴き、暫くの間町民の保護に当たることにし、町民に安堵して生業に励むよう布告。薩摩軍首脳に対し、局外中立で鎮撫に当たることを告げ、旧支配所人民の困苦を見兼ねての処置であることを強調した。彼の迅速な処置により川尻周辺は忽ち鎮静したので、周辺の町からも鎮撫の依頼が相ついだ。彼は避難した戸長(町村の役人)を呼び戻してその後楯となり、各地方の治安の維持に当たった。戸長らの手に負えない兇徒は鎮撫隊の手で処置した。休の局外中立の立場を伝え聞いた士族達は、薩摩軍や熊本隊(薩摩軍に呼応した旧熊本藩士)の参戦強制を避けるため、川尻に集って上田の鎮撫隊の印鑑を受けた。
同年4月、彼の鎮撫の実は認められ賞詞と証書を受けたが、事態は5月に入って急変、彼は熊本の獄につながれること数か月、9月30日の夜、家族にも報せずに斬られる。罪状は、薩摩軍を助けたこととされている。享年48歳。

薩摩軍を助ける意図はなく、中立の立場で町民を守ろうとしただけだった事はよく調べれば分かるだろうに、取り調べた役人達はなんて浅はかなのだろうと最初は思っていたのですが、肥後細川藩拾遺サイトの中で郷土史研究家の鈴木喬さんは下記のように述べられています↓

おそらく彼の業績と人望、それに今回も発揮された彼の威信と信望とが、当事者にとって、生かしておいては将来の禍根となるとの感を抱かせたためであろう。 〜肥後細川藩拾遺サイトより〜

上田休さんについての説明は以上です。名前を「休」と改め隠居していた彼が、川尻町民の困窮を見かねて立ち上がり、当時の最善の策を講じ町民を救ったにも関わらず処刑されてしまったことは、怒りと悲しみを禁じ得ません。彼の死を知った当時の川尻の人達の悲しみは察するに余りあります。亡くなった後も救世主として代々川尻の人達の心に生き続けるであろうことが、せめてもの慰めと思うしかありません😢

それでは次に、上田休が結成した川尻鎮撫隊本営跡に向かいます👟道を暫く東に進むと、江戸時代、小路町筋と呼ばれていた可愛らしい小路と交差します。そこから左折して小路に入ります。

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左折するとすぐ右手、交差点からも見える距離に、本陣跡(小路町の迎賓館跡)の木標が立っています↓

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この場所には、薩摩藩と相良藩の参勤交代のとき藩主が宿泊される本陣(屋敷)があったそうですということは、この道もしくは先程の奉行所跡の前の通りが薩摩街道なのかと思ったのですが、どこにも薩摩街道の案内書は無かったです。帰りに寄った和菓子屋の店主さんに聞いてみたところ、ここら辺ではなく、もう少し先だという事でした川尻の町には直接薩摩街道は通ってなかったけど、薩摩街道のすぐ脇に位置した町だったのでしょうかね🧐

少し進むと無田川という運河跡を渡ります。運河の中には「疫病退治」の灯籠が掲げられていました↓

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運河を渡った先は川尻小学校で、小学校の敷地内、校門のすぐ脇に、川尻鎮撫隊本営跡の石碑がひっそりと立っています。

川尻鎮撫隊本営跡

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西南の役(明治10年)に際し、川尻が薩軍の本拠となると、町役人は逃亡し入牢者は解き放たれ無法の地となった。
 半田村に隠棲していた元町奉行上田休は、薩軍の徴発と無法者の横行に苦しんだ町民達の再度に渡る懇願により、遂に意を決し川尻の治安維持に当たることとし、門弟らを率いて鎮撫隊を結成して中立政策を標榜した。
 旧川尻町史によると、川尻鎮撫隊を設立した上田休は川尻岡町の米村金八の家をもって事務所に充てと記述されており、現在の場所は川尻小学校の東側の裏無田川対岸(旧川尻岡町)附近である
             〜現地案内板より〜

最後の目的地、延寿寺に向かうため、川尻の現在のメインロード県道50号線に出ますが、その手前に案内板に記載があった裏無田川という細い運河を渡ります。橋の袂に「高札橋」と書かれた古い石柱(親柱?)があります↓

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そして県道50号に出たところで、高札場と二里木跡の木標が立っています↓

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説明書には、川尻は江戸時代、熊本と鹿児島を結んだ薩摩街道沿いにあり、熊本城下から二里(約8km)地点に当たっていたと書いてあります。だから薩摩軍の拠点となったのでしょうね。県道50号線を南に進み、瑞鷹建物群・船着場跡・奉行所跡がある先程の江戸時代のメインロードとの交差点まで戻ったら、今度は東に左折します。

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暫く歩いていると、目的地の延寿寺の手前に白い長塀と古い山門を持つ立派な日蓮宗のお寺、法宣寺が現れます。

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慶長14年(1609)創建で、加藤清正の正室、清浄院の供養塔があるそうです。川尻は本当に由緒ある古いお寺が多いです✨そして道の先正面に見えるのが、薩摩軍の野戦病院・仮墓地が置かれた延寿寺です↓

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延寿寺

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延寿寺は鎌倉時代に河尻氏が建立した天台宗寺院で、西南戦争の際には薩摩軍の野戦病院となり、薩軍戦没者の仮の埋葬地となったお寺です。敷地に入ってすぐ左側に、薩軍本営並野戦病院跡の大きな石碑が立っています↓

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そして正面の門の脇に、西南の役の案内板があります↓ 下にその説明書を抜き出して載せますね。

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  薩軍野戦病院・戦没者埋葬地(延寿寺)
この寺は鎌倉時代始め川尻の荘の地頭となった河尻三郎実明が河尻家の祈願所として建立した天台宗寺院であり、境内には豪潮律師が建立した宝篋印塔があります。
 明治10年西南の役には西郷隆盛が軍隊を率いてこの地に入り、はじめこの寺に本営を置きました。2月21日、ここで薩軍は西郷を交えた軍議を開き、熊本城強襲を決したということです。後にこの寺は薩軍の兵站基地となり、野戦病院となりました。このため各地から薩軍の戦死傷者が運ばれ、戦病没者850余名がこの延寿寺に埋葬されました。当時その墓地を薩州墓と称していました。
 後年薩軍戦没者の遺骨は、そのほとんどが遺族によって故郷に改葬され、その後この地には、三州会(薩軍・大隈・日向)により薩軍戦没者の慰霊碑が建立されました。以降毎年4月には碑前で慰霊祭が執り行われています。 現地案内板より

そして案内板には、熊本城攻防戦の薩摩軍の進軍経路が詳細に記された地図も掲載されていました↓

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桐野利秋隊古町方面から800人、村田新八隊横手方面から600人、池上四郎隊坪井京町方面から1700人・・・熊本城周辺は現在も熊本市の中心地です。進軍経路に当たっている町は、私もよく知っている&出かける場所ですので、この図を見た時は正面、背筋が凍る思いがしました。城下町の人達が事前に安全な場所に逃げていたことを願います。

そして寺の敷地の北側に、案内板に記載のあった西南役薩軍戦没者慰霊碑があります。

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明治10年(1877)の西南戦争のとき、西郷隆盛率いる薩軍は川尻に本営を置きましたので、川尻近傍の寺は野戦病院となり、戦死者は延寿寺の墓地に借埋葬されました。戦争が終わった後、戦死者の遺族が遺骨の引き取りに訪れましたが無縁となった人もありましたので、大正五年二月遺骨を集め、この合同碑が建てられたのです。いまでも毎年四月に三州会(薩摩、大隈、日向 出身者の会)で慰霊祭を行っています。〜現地木標より〜

ここでまた疑問が湧いてきます。川尻にはたくさんのお寺があります。きっと薩摩軍に敷地を提供するかしないかで各お寺も葛藤があったものと想像します。野戦病院が置かれたのもこのお寺だけではないようですが、なぜこの延寿寺が薩軍野戦病院兼仮墓地として有名になったのでしょうか。天台宗九州西教区のHPにその理由が書かれていたので、一部下記に引用させていただきます。

明治十年西南役が起こり、川尻町は薩軍の大本営が設けられ、(延寿寺も一時大本営となる。)衛病院が置かれた。薩軍は各寺院に戦死者の仮埋葬を願い出たが後難を恐れて引き受けようとする寺院がない時、当時二十八歳の傅弘應は進んで引き受け、戦後どのようなお咎めがあろうとも死を覚悟して言い開きをしようと決心し、寺領の一部を提供し、戦死者の月日、場所、姓名を記録して埋葬し読経回向を行った者が八百五十三名に及ぶ。
         〜天台宗九州西教区HPより〜

若い住職さんの一大決心があったのですね😣危険を冒してでも敗戦した薩摩軍の戦死者を弔ったのもとても尊い行いですね😭

石碑に手を合わせて、戻ろうと振り返ると、石碑の左側に屏風型の綺麗な石のモニュメントがあるのに気付きました。

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これは延寿寺に当時埋葬された薩軍戦没者828名の名前が刻まれた銘碑です。慰霊祭100周年を記念して2015年に建立されたそうですが、除幕式には西郷隆盛の子孫の方や鹿児島県知事、宮崎県知事も参列したそうです。
 こうやって戦没者一人一人のお名前が列記されていると、西南戦争の悲惨さを感じますね。

石碑から延寿寺の境内を見渡した景色です↓

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当時はおそらくこの敷地いっぱいに負傷者が運ばれて騒然とした雰囲気だったのでしょうね😢今の静かで穏やかな境内からは想像しにくいですが。
 因みに熊本県内には、西南戦争時の古戦場や薩摩軍の進軍・敗走経路に、官軍墓地や薩軍墓地、そして陣跡の石碑や野戦病院となったと伝わる寺などが点在しています。熊本人からすれば時々出くわす光景なので、これからも機会があればご紹介していきたいと思います。

まとめ

川尻散策日記の記事は今回で終わりてす。【西南戦争ゆかりの跡地を巡る編】いかがだったでしょうか?西南戦争がつい最近実際にあった戦争としてリアルに感じられたのではないかと思います。ここからは私の勝手な想像ですが、川尻は薩摩街道沿いにあり参勤交代などでも薩摩藩士の往来も多かった、そしてたくさんのお金を落としてくれただろうし、町の人達は西郷さんや他の藩士とも懇意だったかもしれませんよね。それが明治維新後、今度は物々しく武装して町を占拠し、川尻の人達からすればどうしてこんな事になったのだろうかと、混乱し動揺したのではないかと思います。薩摩軍にも知り合いがいたかもしれませんし同情の念があったかもしれませんね。西南戦争関連跡地を散策していると、急速に時勢が変わって戦に巻き込まれた川尻の人達の動揺と葛藤が時を超えて伝わってくるようでした。
 それからやはり、散策中も記事を書いている時も、今海外で起こっている戦争の事を思い出さずにはいられませんでした。時代が違っても国が違っても、戦争で一般の人々が感じる混乱や動揺は同じものではないかと感じました。一刻も早く戦争が終わることを願います。
 最後は今回の散策で一番印象に残った上田休さんで締めたいと思います。歴史の教科書にもWikipediaにも載っていませんが、西南戦争の真のヒーローは上田休さんだと思いました。教科書や小説にも取り上げられない地元の英雄や、戦乱に巻き込まれた地元の人達の心情というのは、やはり現地を散策してみないと分からないものだと感じました。今後もそういう観点で史跡散策して、皆様に伝わる記事が書けたらいいなと思います。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用・参考HP】
熊本市観光ガイド(アクセス情報はこちらから)

くまもと工芸会館HP
http://www.kumamoto-kougei.jp/index.php/menu-kawashiri-bunka/kawashiri-bunka-ebisu/33-kawashiri-bunka-ebisu13

肥後細川藩拾遺サイト
http://www.shinshindoh.com/yasumi-suzuki.html

熊本経済オンライン
天台宗九州西教区HP
熊本市ホームページ

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