スピリチュアルの雑記
SNSやYoutubeが市民権を得て、色々な人の意見や考えが、膨大な量で日々溢れかえっている。おかげさまで自分にない思想や考えを良くも悪くも覗き見できる。
スピリチュアル系というのだろうか、オカルトとも言えるかもしれない。自称だが、目にみえない世界と繋がっている人たちの動画を、何度か視聴した。一度見るとおすすめでいくつか違うものを勧められる。
これが意外と面白い。語られる内容はもれなく、いわゆる世の中の常識から、大きく逸脱している話ばかりだ。宇宙の法則を知っている人もいれば、人のエネルギーを見れる人もいたり、中には宇宙人にさらわれた経験がある人もいる。ここまでくるとスピリチュアルとは、また話が変わってくる。
とにかく、巷で聞いたらさも怪しげで、霊媒商法のような扱いを受けてしまいそうな話ばかりだ。
この人たちの話が本当かどうかはわからない。宇宙人にさらわれた話は置いておいて、宇宙の法則だの、人のエネルギーだの、精神世界と繋がっているだのは、決して目に見えないものなので、その人以外に確かめようがないからだ。真実はご本人の頭の中のみで、出てくる言葉をこちらでどう受け止めるかしかない。
何でもかんでも、霊媒商法的なことに押し込めてしまうのもあまり賢い聞き方でもないので、嘘のような話でも、嘘をついていると思っては聞かない。しかしやはり共感はできない。ただ共感できなくとも話は面白く聞ける。おそらく、その人が言っていることは、その人の中では決して間違っていないのだろう。そういう意味においてその人たちを、信じている。
極端な例を前にすると、つくづくやはり世界は一つでないと、わかりやすく思えてくる。その人の話が実感としてわからない限り、僕の世界線にはそういうものたちは御伽噺でしか立ち現れない。だからと言って、その人たちの世界ではそれが動かし難い現実として目の前に存在するのだろう。
だから「本当の世界」とか「真実の世界」いう言葉には気をつけた方が良い。本当の世界は決して自分の世界以外にはなく、自分が経験し、実感し、感覚と感性を動員して直面してる世界しか「本当」はない。そして、その本当の世界を所有している個人が、世界には何十億人といて、その数だけ本当の世界が存在する。
例えば、どう考えてもおかしな経験を自身がしたならば、それは経験した自身の世界の話で、他人はそういう世界には生きていない。世界を一つだけと思うから、そいう経験を嘘か本当かの2択に迫ることになる。だから2択ではなくて単に色々だということに過ぎない。
人の頭の中はわからない。わからないものはわからない。そして世界を作っているのは間違いなく、わからない同士の各々のその頭である。戦争や揉め事は大体は自分の頭の中の押し付け合いから生まれる。
僕らは精神だけでは生きれない、個性的な唯一無二の体がないとどうしても生きれない。確かに精神、心には普遍があるだろう。でなければ言葉なんてものは存在し得ない。
しかし、不思議なもので、個性的な体を通して精神を体現すると、こうも人それぞれ、普遍的な精神が個性的な形で現れる。
個人とは、普遍と個性が重なり合う場所だ。
人の頭はわからないと書いたが、わかる瞬間、正確にはわかった気になる瞬間があり、それは精神の普遍性によるはずだ。
また、長く一緒にいるとその人の傾向がよくわかるようになってくる。こうすればこうなるとか、こうなりそうとか。しかし、それはあくまで結果の経験の、蓄積であって、知識に等しい。その人の気持ちが本当にわかっているのとは違う。
わかるとは論理でなく感覚だ。
しかし、わかった気になるのは、やはり自分の頭の中であって、この範疇を越えれない限り人はやっぱり孤独だ。これにはいいも悪いもない。
前提として、僕の世界と他人の世界は違う。違うのだからお互い気を遣うしかない。しかし時折、重なる部分を感じれる時もある。それはたまに巡ってくるラッキーで、一つの世界で一つの真実を巡って揉めるよりは、そのくらいで考えていく方が僕には向いている。
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