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わたしが罪人だって?!

こんにちは!弟子塾のたまごです。

すべての世代に聖書をわかりやすくつたえる。クリスチャンとして生活しながら思うことをブログに書き綴っています。

11月に入って年末モードになってきました。ツリーがかざられたり、クリスマスグッズやギフト、なんかのクリスマスエディションなるものが店頭に並んだりしています。

教会ではクリスマス関連のイベントがあり、世の中と同じように予定がつまった12月を迎えます。普段教会に来ない方々を対象としたイベントを行うとこういう声を聴くことがあります。

「教会ってキヨイ人たちがいるイメージなんですけど、私がイベントに参加してもいいんですか・・・?」

大歓迎です。どうやら日本では教会に通うのはキヨイ人たちだというイメージを持つ方がいらっしゃるようです。

ですが、教会に通い始めるとそんなイメージとは真逆の「私たちは罪人です」ということばを聞くこととなります。よい行いをして、自分を正し、なにか聖なる感じだと思っていた人からするとギャップを感じるでしょう。どうして私たちは人間は罪人なのでしょう?

アダムとエバからはじまった罪

聖書の一番初め、創世記 2章にある話です。一番最初につくられた人間であるアダムはエデンの園という地域の管理を神様から任されました。神様はアダムにエデンの園でのルールをひとつ教えました。

「どの木からも実をとって食べていいんだけど、善悪の知識の木からは取って食べないでね。食べると必ず死んじゃうから。」

その後、神様は人(アダム)がひとりでいるのがよくないと言って、女(エバ)をあたえてくださり、2人は夫婦となりました。結婚という制度はここからはじまっています。

蛇とエバの会話

エデンの園には神様がつくられた動物もいました。3章で悪魔が蛇を通して女・エバに話しかけます。「え?神様は本当に園の木のどれからも食べちゃいけないって言ったの?」

エバは答えます。「私たちは園の木の実を食べていいの。でも、園の真ん中にある木の実は食べちゃいけない。それに触れてもいけない。私たちが死んじゃうとだめだって神様が言われたんだよ」

「いやいや、君たちは絶対死なないよ。むしろそれを食べたら、君たちの目が開かれて、神のようになって、善悪を知ることになっちゃうのを神様は知ってるからだよ。」


どうやら神様が言ったエデンの園でのルールとエバの認識には違いがあるようです。

神様がアダムに伝えたエデンの園のルール
1.善悪の知識の木の見は絶対に食べてはいけない。
2.もし食べたら必ず死ぬ。
エバの認識
1.善悪の知識の木の実は食べてもいけないけど、触ってもいけない。
2.食べると死んじゃうかもしれない。

神様は善悪の知識の木を「触ってはいけない」とはアダムには言っていません。そして、もし食べたら必ず死ぬといわれているのに対して、エバは死んじゃうかもしれないと曖昧なニュアンスで言っています。

蛇の言い方

神様は人間にどの木からも実をとって食べていいと自由な領域をくださり、善悪の知識の木の実を食べないことだけは守ろうよと言っている反面、蛇はあたかもすでに人間に与えられている領域さえも与えられていないと思わせるような口調です。

あんな言い方だとなんだか神様はいじわるで、神様から人間に何も与えられていないという被害妄想に陥りそうです。これではエバの中に神様に対する不信感がうまれるのではないでしょうか。

木の実を食べてしまった2人

つづきを見てみましょう。

エバはその木を見ました。なんだかおいしそうで、見た目もいいし、自分のことを賢くしてくれそうな気がします。女(エバ)はその実を取って食べました。また、それだけでなく夫(アダム)にもあたえ、夫も食べてしまいました。

神様は人(アダム)に聞きます。「食べてはいけない、とわたしが命じた木から食べてしまったのか」

人(アダム)は答えました。「あなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたから、私は食べたんです」

神である主は女(エバ)に言いました。「あなたは何ということをしたのか」

女(エバ)も答えました。「蛇が私を惑わしたんです。だから私は食べたんです」


この構図、身近なところでも見たことあると思います。親にだめだと言われたことをやってしまった子どもが言い訳をする姿です。アダムもエバも答えの内容は「自分のせいじゃない!あいつのせいなんだ!」ということです。

これを責任転嫁といいますよね。アダムはこの女が!とエバのせいにすると同時に、神様が私にこの女をあたえたじゃん!と神様のせいにもしています。エバはどうでしょう。そもそも蛇が私に声かけてきたの!と蛇のせいにしています。

神様との約束を守れなかったのは他でもない2人自身です。「神様の命令にそむくこと」、これがです。そして、人間関係の中で一番最初のは「責任転嫁」です。自分は罪人ではないと自分の非を認めていません。

罪ってなんだ

ギリシャ語で罪の原語の意味をしらべると、的外れという単語がでてきます。ここでいう的とはなんでしょうか。

私たちがフォーカスすべき的は神様です。私たち人間のフォーカスが神様からずれることが罪なのです。神様にフォーカスをあてる、神様に集中する、神様に向き合う。アダムとエバの状況であれば神様が命じた「善悪の知識の木の実を食べない」という約束を守ることが神様に向き合っているということでした。

それを食べてしまったことにより、彼らの向き合うべき的は神様ではなくなってしまいました。蛇と話した後、エバは木を見てどう思ったとありましたか?神様との約束を守ることよりもなんだか魅力的に見えてきた木の実を食べることを優先してしまったのです。

神様に向き合うって?

私たちの生活でも神様よりも集中している何かがあると思います。それを教会では偶像といいます。神様は私たちが仕事や勉強、何をするにも神様にちゃんと向き合い、集中し、フォーカスをあてるように願っておられます。

その神様にフォーカスをあて、集中し、向き合うためには何が必要でしょうか。まずは神様がどんな方なのか知ることが大事です。そして「善悪の知識の木の実を食べないで」と言われたように、神様が私たちに願っておられることが何か知ることも必要です。

神様はとてもすばらしくて、よいお方です。神様がどんな方なのか、何を願っておられるのかは聖書に詳しく書いてあります。ひとりで読んでもよくわからないときは、教会で話し合ってみたり、牧師先生に聞いてみることをおすすめします!

なんで私が罪人なのか?

アダムとエバのエデンの園での話から罪が何なのかはなんとなくわかってもらえたかもしれません。神様の言ったことを守らない・守れないこと、責任転嫁、ウソをつく、自分の非を認めない、など。でもどうしてそれで私が罪人になっちゃうのでしょうか。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べてしまったことにより、人間の中には罪が入ってきました。今を生きる私たちの中にも罪の性質はあります。神様が望まれることを行おうとせず、神様という的に向き合わず、自己中心的に生きるのであるなら、私たちはずっと罪人なのです。

こういう私も自分が罪人だと知る瞬間がありました。ストレートに正論をぶつけてしまうことで正しいことは言ったかもしれないけど、相手が傷ついた顔を見たときでした。

そんな自分本位の伝え方をしたとき、なにかモヤモヤして自分の罪に気づき、相手に謝ることができました。そんな風にみなさんも思い当たることがあるかもしれません。

清算したい、自分の罪

ではこの神様から的がはずれてしまった罪をどういう風にもどすことができるのでしょうか。自分の罪をどうにか清算、チャラにする方法はあるのでしょうか。

それは罪を赦してもらうことです。誰に赦してもらうのか、もちろん神様にです。なぜなら罪かどうか判断する基準は神様にあるからです。

クリスチャンとして生きることが何か教えや悟りをあたえる宗教と違うのは、よい行いによるノルマがないことです。よい行いをしたからといって、自分がした悪いことをプラマイゼロにすることはできません。

新約聖書 ローマ書 3章 23節
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

なぜなら神様は私たちに自分の罪をプラマイゼロにするためによい行いをしてほしいとは思っていないからです。神様がこれが罪だよっていうのであればそれは罪ですし、こうすると罪を赦すよといえば赦されるのです。

赦される方法は神様の前に自分が罪人であることを認め、イエス・キリストが自分の罪を背負って十字架で代わりに死んでくださったことを信じることです。

新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1章 9節
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

イエス・キリストが自分の代わりに死んでくださったというのは、自分の受けるべき刑罰をイエス・キリストが自分の代わりに受けてくださったということです。

旧約聖書 イザヤ書 53章 4-6節
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

ここで語られている「彼」というのは、イエス・キリストのことです。彼のところをイエス・キリストに置き換えてもう一度読んでみてください。


私が私の罪のために死ぬべきだったのに、私のために死んでくださった方がいるというのは何とも言えない気持ちになります。タダで何かをいただくということに慣れていない日本人であれば当然の反応かもしれません。

この事実を受け止め、シンプルに感謝すること、受け入れることができれば、2000年以上前、私たちがうまれる前から私たちの罪を代わりに背負ってくださったイエス・キリストを思い、自分の罪、そして神様に向き合える時間がもてるのではないでしょうか。



今日の一言

自分は罪人なんかじゃないと思いたいところだけど、よく考えると心当たりがあるかも。そんな自分を責めずに、罪があることを認めたのは大きな一歩!


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