見出し画像

【義務教育】小中学生の強制就学は許されるのか?

学校は、12歳以下の者たちにとって、住民基本台帳を管理されている役所のようなものである。なぜなら、現在の日本国憲法下では保護者には教育を受けさせる義務が生じており、したがって、すべての日本国籍を持つ12歳以下の児童は、地元の小中学校に強制的に所属することになっているからである。

フリースクールに通っていても、学籍は小中学校にある。

現在の日本では、日本国籍がある以上、すべての12歳以下が例外なくどこかの小学校・中学校(または義務教育学校、中等教育学校)に所属している。例え、普段はフリースクールに通っていても、学籍は地元の小中学校にある。もちろん、私立学校に通っていれば、学籍はそこで管理されているが、基本的に地域の小中学校が12歳以下の住民を管理監督している。まるで、学校は、役所のような行政システムであると思えてくる。この管理方法には、奇妙な側面がある。

強制就学の是非

教育を受けさせる義務を負っているのは、保護者であり、児童生徒が有しているのは教育を受ける権利である。つまり、児童は教育を受ける義務を負っていない。それにも関わらず、就学が義務化されているのは、小学校・中学校に児童生徒が就学していない=保護者が児童を強制労働させている可能性がある、と教育行政学的にはなるからである。

ただし、それによって小学校・中学校に児童生徒が就学を強制させられている事実は、「子ども」に教育を受ける義務があると言っているのと同じことだ、という批判もあり得る。この事態をどう解釈すべきか、と考えた結果、学校は12歳以下にとって役所なのだと思えば、強制就学制度も許容し得るのではないか、という結論に行き着いた(ただ、そんな面倒なことをわざわざ役所ではなく、学校でやる必要はないとも当然思うけれど)。

強制就学をやめる場合のリスク

かといって、強制就学制度を廃止するとすれば、保護者が児童生徒を強制労働させている可能性が浮上する以外にもリスクがある。

端的に言って、それは「フリースクール卒業」という経歴が正式に認められてしまう事態になるのである。これを支持する者と支持しない者がいる。本来は、義務教育の歴史的経緯と理念を踏まえれば、児童が働いていないことが明らかであれば、どれだけ小中学校に通っていなくとも卒業を認めない必要は全くない(年齢主義)のだが、実際には校長が出席日数が足りないなどと言って、生徒の中学卒業を認めない事態が生じている。これを受けて、「だったらフリースクール卒業を中学校卒業と同等に扱ってくれ」という動きが起こった時がある。これによって国会で提案されたのが、多様な教育機会確保法案である。

この法案には以下のような批判があった。

① フリースクールと普通学校の分離教育となってしまい、国際的なインクルーシブ教育の理念と逆行している。
② 問題は、フリースクールに通う児童にあるのではなく、行きたくなくなるような学校にあるのであり、そもそも学校側を改善すべき。
③ フリースクール卒業には、どのような内容を学習したかを文科省に報告する必要があり、年齢で自動的に卒業できる年齢主義(義務教育の根本理念)から「内容」をチェックする課程主義に変わってしまっている。
④ 民間企業(株式会社)が小学校の代わりのコースを作れるようになる。現在は学校法人でなければならない。

私がこの論争を知った時、フリースクールを公的な教育機関として認め、中学校卒業と同等にすることは危険性が高いと感じた。「フリースクールを社会的に認めろ!」と言えば聞こえは良いが、実態は以上の反論し難い状態に陥ってしまう。フリースクール運営者は、これらの懸念点を知らない場合がほとんである。

ただ、そもそも地域の学校がその地域にいるすべての12歳以下の学籍を管理し、通いたいと思っている前提で行政手続きを行うことが政治哲学的に許されるのかという根源的な問いが残ってしまう。いわゆる自由至上主義者、リバタリアン、小さな政府支持者、最小国家論者は、国防・警察・裁判所以外の行政サービスからは、国家は撤退すべきだと主張するのだ。

国防・警察・裁判所以外となれば、国家が国民に対して、学校へ強制就学させることは許されない。これは単純に、「人が望んでいないことを強制させることは、どのような理由があろうと許されない」という自己所有権の自然権を徹底するからである。私は、このリバタリアンという立場を取っている。

このリバタリアニズムの立場からすれば、児童の強制就学制度は、自然権・自己所有権の観点から許されない。だから、冒頭で述べたように、学校をあくまで12歳以下を管理する役所なのだと解釈すれば、(フリースクール卒を認めてしまえば、分離教育になってしまうし)学校の就学強制を許容してもよいかなとも思っていた。しかし、最近考えが変わりつつある。

就学義務がなくなれば、そもそも「不登校」はなくなる。

そもそも、地域の12歳以下全員が小学校か中学校に学籍があり、通っているという前提があるから、通わない者を「不登校」と呼ぶようになってしまっている。しかし、本来は児童生徒に教育を受ける義務、学校へ通う義務は全くないのであり、そもそも「不登校」という言葉自体、変である。だから、強制就学制度を廃止すれば、小中学校には通いたい人しか通っておらず、学籍もないため、不登校児童生徒は基本的に存在しなくなるだろう。

学校に通っていない人がもっとたくさん増えてほしい

近代社会、今の日本社会は、学校に通っていることを前提にいろいろなシステムが成り立っている。しかし、繰り返す通り、学校に通うことは義務ではないし、学ぶことも強制されるべきではない。子どもには責任能力がないから、学習を強制させることができると主張する者もいるが、これは近代社会の価値観である。歴史家フィリップ・アリエスは、「子ども」の概念が中世より以前には存在しておらず、赤ちゃんか大人しか存在しなかったと指摘したことは有名である。かつて、キリスト教圏では7歳を越えれば、大人と同じ法律によって罰せられていた(だから私は日常的に「子ども」という言葉を使わないし、使うとしても「」や""をつけて揶揄的に使っている。代わりに、微妙ではあるが、児童生徒という行政上の用語を使っている)。ゆえに、私は7歳以上の者全員を「大人」として認識しているし、自分より年下のものであっても、どれだけ歳が下に離れていようと敬語を使うようにしている(極端なことを言えば、7歳以上には選挙権と被選挙権、飲酒する自由などを認めることも検討の余地があると思っている)。

やはり、どのような制度にしても強制加入はリバタリアン的に許容できない。いずれにしても、個人の自由を制限する学校制度を改めて政治哲学的に検討する価値はあるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?