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テクノロジーとテクネー

新しい問題について考えるとき、問いの対象と同じくらいに問いを立てた動機が気になる。問題意識といってもよい。今日考えるのはいわゆる技術論についてなのだが、私としては「職業知識人はテクニテースだとこの前(ジャック・ルゴフの本を読んだ時に)考えたけれど、そもそもテクネーが何なのかうまく説明できないな」というくらいの気持ちでこの問いを始める。
今回読んだのはマルティン・ハイデガー 著、森一郎 編訳『技術とは何だろうか』(講談社学術文庫)。ハイデガーが技術について語る時、その問題意識は「現代技術に徴用される人間の救いとは何か」というものである……と自分で書いていて、何を言っているのかよくわからない。ハイデガーはいつもそうだ。
ちなみに本書は「物」、「建てること、住むこと、考えること」、「技術とは何だろうか」と題された、テーマ的には連関しているが各々独立した三つの講演を一冊の本にまとめたものであり、本稿で取り扱うのは三つ目の講演、「技術とは何だろうか」である。


技術とは何であるか、という問いに対するハイデガーの回答を簡潔に述べれば「技術とは顕現させること(Entbergen)である」というものである。妙な言い回しだが、Entbergenとは字義的に見ればEnt-bergen(脱‐隠蔽)であり、隠れていた状態から脱するという意味において隠蔽を前提している概念である。では、「隠れている」とはどういう状態なのか。たとえば家について考えるとき、素材としての木材は未だ家としては存在していない家の隠れた形態であるといえる。この隠れた形態の家を、現実の家へと存在させる働きを「こちらへと前にもたらして産み出すこと」(Her-vor-bringen)という、これまた妙な言い回しでハイデガーは説明する。
hervorbringenというドイツ語自体は「造る」とか「生み出す」といった意味の普通の言葉である。そこでherとvorとに区切りを付けて「こちらに」、「前に」の意を強調し、前提となっている隠蔽性をハイデガーは明示しているのだろう。くどい言い換えをすれば、遠くに隠れているものを近くに、奥に潜んでいるものを前に、そのようにして持ってくることが何かを存在させる働き(Entbergen)であり、これが技術の本質である。
このHer-vor-bringenを端的にあらわす言葉がギリシア語のポイエーシス(poiēsis)である。ポイエーシスとはなにも手仕事的な制作術や、詩作のことのみを表す言葉ではなく、「こちらへと前にもたらして産み出す」という意味において理解されるべき言葉である。さて、このとき注意すべきなのはポイエーシスの働きとしての技術を作用主体の働きとして解するべきではないということだ。たとえば家の作用因(始動因、動力因)は建築家であるというとき、原因として考えられているのは建築家の手の力ではなく、他の三原因を取りまとめる建築家の熟慮である。熟慮(überlegen)というと少し難しいが、これを職人の専門知や経験、あるいは勘といってもよいかもしれない。アリストテレス風に説明すれば、現実態としての家に対する可能態としての建築術、ということになるだろう。
なお、原因概念の作用主体的なイメージは「作用をもたらすもの」の意であるラテン語のカウサ(causa)を由来とするが、この概念の原初的な意味は「責めを負うもの」の意である古代ギリシア語のアイティオン(aition)に求められる。アイティオンの「責めを負うもの」(Verschulden)という意味は、道徳や作用の問題ではなく、「始動のきっかけとなる」(Ver-an-lassen)という意味において捉えられねばならないことをハイデガーは強調している。

以上のように技術の本質を顕現させることと考えてきたハイデガーであるが、次に「現代技術」の本質とは何かという問いへと議論を進めていく。なお現代という意味に関して、本講演「技術とは何だろうか」が開かれたのは1953年のことである。
現代技術の本質も顕現させることの一種ではあるが、しかしそれはこれまで述べてきたような「こちらへと前にもたらして産み出すこと」(Her-vor-bringen)ではなく「挑発すること」(Herausfordern)であるとハイデガーは語る。この「挑発すること」とは「自然をそそのかして、エネルギーを供給せよという要求を押し立て、そのエネルギーをエネルギーとしてむしり取って、貯蔵できるようにすること」であるとされる(112頁)。「挑発」というと、その目的語は人間であることを想定してしまいそうだが、ここで挑発されているのは自然であることに注意したい。なんだかテクノロジーによって自然がカツアゲでもされているようなイメージである。
現代技術は自然を挑発する。それは技術自体がエネルギーを生み出すとか、作りだすという意味ではない。換言すれば、技術が作用主体であるのではない。エネルギーは自然の側に潜在しているのであり、それを技術はハイデガーのいう「挑発する」という仕方で顕現させているのである。
さて、自然を例にして考えてみたが、こうした現代技術の挑発から人間は自由なのかというと全然そんなことはない。自然を挑発して、そこから資源や物資という形で利用可能なものを顕現させているテクノロジーの遂行者は人間である。人間は技術を遂行し、自然を利用するように挑発されているのであり、その意味において人間もまた技術に資する存在者なのである。通俗的な言い方をすれば、社会の歯車とでもいえばよいだろうか。ハイデガーは人的資源、人材(Menschenmaterial)という言い方をするが、森が木材の供給係にされるように、森番は木材の徴収係にされているのである。人間や自然のこのような存在の仕方を「徴用して立てられる」(bestellen)とハイデガーはいう。このとき人間は単に自然の主人として自然を搾取しているというよりも、否応なしに自然を利用するように仕向けられているのであり、この意味において現代技術は人間をも挑発しているのである。

ハイデガーは更に、人間は自然よりも一層根源的に徴用物資(〔Bestand〕辞書的には「在庫」の意も)になると語る。人間が物資になるとはどのようなことか。人間がモノ化するとでもいえばよいのだろうか。これは個人として存在する人間がその個別性を剥奪され、徴収者としてひとまとめにされるとき、徴収者としての人間は(自然がさながらエネルギー貯蔵庫の如く扱われるように)技術にとっての利用可能な資源となるということ……だと思う。ハイデガー風にいえば人間は資源として顕現させられるということになるだろうか。
このようにして人間を徴用物資として取り集める働きをハイデガーは「総かり立て体制」(Ge-stell)という、本講演の中でも殊更奇妙な言い回しで説明する。Gestellとは「台」、「枠」といった枠構造をもった器具のことを表す言葉であり、ハイデガーがこの言葉に託している意味を理解するのにはひと手間かかる。ここでハイデガーは接頭辞”ge”のつくドイツ語の例として、山々(Berge)を取り集めるものとしての山脈(Gebirg)や、気持ち(zumute)を取り集めるものとしての心情(Gemüt)を挙げている(120頁)。つまり接頭辞の”ge”は後ろに続く言葉を取り集める働きを持つといえよう。ゆえにこの奇妙な語法は、かり立て(stellen)を取り集めるものとしての総かり立て体制(Gestell)と解せばよいだろう。(訳出のニュアンスとしては全体主義的なイメージを含ませているのだろうか?)

現代技術は人間を物資として顕現させる。この顕現のさせ方を総かり立て体制とハイデガーは呼んでいるわけであるが、ここまで読んできて技術はなんだか悪者のようである。だがハイデガーはたとえば「技術は人間を奴隷にする」ということを問題視しているのではなく(それはそれとして問題だろうが)、総かり立て体制という顕現のさせ方が、「こちらへと前にもたらして産み出すこと」すなわちHer-vor-bringenやポイエーシスといわれた顕現のさせ方を隠してしまうということを問題視している。これは同時に人間から真理(非隠蔽性としてのalētheia)を隠すということも意味する。
技術のもたらしたこうした事態をハイデガーは危機と見なすが、この危機からの救いも技術の本質それ自体から見出されるとする。だがここで考えられている本質というのは、「カシやシラカバは木である」というような類としての本質ではなく、「存続する」(währen)ものとしての本質である。そしてハイデガーこの「存続する」(währen)ことと「存続を認める」(〔gewähren〕辞書的には「許す」の意も)ことを、どうも同一視しているようである(ハイデガーはゲーテを引用しているがその理屈はよくわからない〔142頁〕)。つまりここで技術の本質とは何かという問いは、技術において存続を認めるものは何かという形式で問い直され、危機からの救いもこの「存続を認める」という観点から考えられる。

では、技術において存続を認めるものとは、あるいは技術のもたらした危機からの救いとは何か。それは人間が「真理の本質を守護するために求められる者となる」(146頁)ことである。まだよくわからないが、これをハイデガーは「こちらへと前にもたらして産み出すこと」(Her-vor-bringen)としてのポイエーシスの働き、特に芸術の中に(とりわけ詩の中に)見出している。
端的に「芸術は救いとなる」といってしまえば陳腐な響きになるが、ハイデガーの意図はどこにあるのだろうか。ハイデガーは「芸術とは、敬虔なもの、プロモス〔promos〕なもの、すなわち真理のふるう支配および真理を安全にしまっておくことに従順なもの、だったのです」と語る(〔148頁〕プロモスは「第一人者」、「先頭に立つ者」の意か?)。「安全にしまっておく」といわれると、それはポイエーシスと逆のことである気がするのだが、これはどういうことだろうか。ハイデガーは詳しく語っていないので推測になるが、これは芸術も一つの顕現させる働きではあるが、それは「徴用して立てられる」(bestellen)存在のさせ方ではなく、ただ単に美しいものを美しいものとして「こちらへと前にもたらして産み出させる」(hervorbringen)存在のさせ方である、ということではないだろうか。言い換えれば、徴用に晒さずに(安全にしまっておきながら)、真理を真理として顕現させることが芸術である、ということだろうか。この芸術の領域において人間は真理の守護者たるに相応しき者となり、それこそが技術のもたらした危機からの救いとなる……のか?


疑問文が連続してしまったのでそろそろ話を畳もう。今回は特にドイツ語の意味の確認に苦労したが、これはそもそもハイデガーのスタイルによるものであるから如何ともし難い。何ならハイデガー自身も自らの語法に関して思うところがあるらしく、Ge-stellに特別な意味を付与した件に関しては「私なんかプラトンと比べればまだかわいい方だよ」(意訳)と開き直る始末である。そういわれると文句も言い辛い。
さて、本講演が行われたのが1953年であることは先にも述べた。これは第二次世界大戦が終結してから8年しかたっていないということである。「徴用」や「総かり立て体制」という翻訳は、こうした時代のニュアンスを汲んでのことかと想像する。では我々にとっての現代において、技術論はどのような問いを立てうるのか。私が思うのは自然と人間という伝統的な二元論が、現代においてどこまで通用するのかということである。いや、割と通用するのではないかとも思う。だが現代の我々が気にかけている技術とはもっぱら情報技術ではないだろうか。このとき、情報と人間という新しい二元論が立ち上がるのか、あるいは依然として自然が権勢を振るうのか。そういうことが今気になる。

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