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文章は数学の如き美しきものなのか

わたしはどうも文章を考える、書くということが苦手なようでして、なぜなのだろうと考えても脳みその回路が足りてないのでは?一部が眠っているんじゃなかろうか、そう思うことが多々あります。

例えば小学生の頃から果ては大学、さらに就職してまで!書かされる感想文や論文など。もちろん、小学生の時分では感想をただ連ねるだけでよろしい。でもその中でもコンクールとかいう競うものがある。それに選ばれたことは一度もないです。
これは中学生、高校生になるとまた顕著になってくる。もうその頃には文章を作る能力がかけていますのでね、何回も同じようなことをあの手この手でちょっとずつ言い換えて書くんですよね。
先生がたにも何度も注意されました。とくに大学生ともなると論文。構成能力や調査能力まで問われるものになってきます。わたしはもう文章を書くということが苦手なものだという雛が親鳥を刷り込まれるように恐怖すら感じているわけです。
もう文章なんて国語というより数式のように考えたほうが幾分か楽なほどです!(わたしは数学というものがとてもとても苦手でお恥ずかしながら高校生のときに過去最低の100点中4点を叩き出したこともあります。)
文章を数式のように組み立て、言葉を並べる。しかし正確な答えになっているかどうかは教授たちの納得のさじ加減なわけです。正解の文章(つまりは結末の文章とわたしは捉えています)にいたるまでは何通りもの単語や文節を組み合わせていくのですが、そこには美しさや口に出したときの滑らかさも問われます。教授たちはその細々した誤りを直していき、四苦八苦わたしたちはしながらなんとか卒業できる、というわけです。
もちろんこの技術は社会人になっても続きますよね。

このようなことをつらつら考えていても、やはり文章には正解があるのでは?という結論にたどりついてしまいます。
ここまで読んでくださった方もわたしの文章能力のなさに呆れているでしょう。単語のチョイス、文節のガタガタ、要領の得なさをかんじているでしょう。(もしくはもう回れ右して帰っているかも)
もちろん簡潔で美しい表現の選択ができている、わかりやすい文章が正解であると思います。
それがあってこその小説やエッセイや論文やお話になるのですから。
しかし、しかしですよ。
わたしがここまで要領の得ない拙い言葉で書き綴っているのははたしてなんなのでしょうか。
ひらがなの羅列?便所の落書き?

多分ほとんどの人はこう思います。「ただの意味のわからないたわごとである。」と。

ただわたしはですね、この戯言も文章であり、わたしが必死に伝え、残そうとしている遺書やらダイイングメッセージやらナスカの地上絵やらと同じである。そう声を大にして言いたい。
(ナスカの地上絵はさすがに言い過ぎました)
なにかを伝えたい、思考を整理したい、残したい、そう思って書いた言葉や文には意味がわからなくくだらないように見えるけれど、そこにはその人のなんらかの意思があるのだと。
拙い言葉を並べただけでも意味があるように思う、そう思えてならない、わたしは少なくともそう思いたい。
でも人間っていうものは賢いから何事にも理由をつけたがるそうですから、これも理性と人間の慣習のものなのでしょうか。
ダダ漏れの配管のように思考しているとお腹が空いてしまったので、今日はここで終わります。

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