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中原一歩研究(4)フジロックはサヨクの盆踊り

徹底追及第10弾! 小山田圭吾はなぜフジロックで復帰するのか


 日本の反原発運動に影響を与えた作品が二つある。ひとつは、広瀬隆の『危険な話 チェルノブイリと日本の運命』(1987年、八月書館)。

 これは1986年4月に起きた、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所事故後に出版され、テレ朝『朝まで生テレビ!』で原発賛成派と反対派とで論争になるほど話題となった。景山民夫はこれをきっかけに反原発に入れ込み、この本を知人に片っ端から送りつけてオルグしていたという。(「噂の眞相」1998年4月号)。

 広瀬隆には『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(文藝春秋、1982年)という著作もあり、膨大な資料を渉猟し、ハリウッド映画スターの死因と、西部劇のロケ地と、核実験とを結び付けて驚くべき結論を導いた。

 その広瀬隆の狂信的な姿を『朝までナメてれば』とモノマネして、からかっていたキッチュこと松尾貴史が今や左翼の論客気どりなのは感慨深い。

 もうひとつの作品は、ケヴィン・ラファティ監督らによるドキュメンタリー映画『アトミック・カフェ』(1982年)である。これはアメリカ政府によって作られた「核の時代」のプロパガンダ映画を素材にして、それを切り貼りして編集することで、まったく逆のメッセージを伝えることに成功した反核映画だ。
 この映画の日本での上映運動をきっかけに生まれたのが、「アトミック・カフェ・フェスティバル」である。

ロックと反原発運動の危険な話、大久保青志


「アトミック・カフェ・フェスティバル」を主催したのが大久保青志である。
 その多彩な経歴は様々な場所で断片的に耳にすることがあったが、『フェスとデモを進化させる 「音楽に政治を持ち込むな」ってなんだ!?』(イースト・プレス)という自伝の出版により、ようやくまとまった形で知ることができた。

 1972年。大久保青志は二十歳で渋谷陽一と出会い、一緒にロック雑誌『ロッキング・オン』を創刊する。大久保の自伝の企画・構成をした増井修は、『ロッキング・オン』が採用した最初の正社員である。
 大久保青志はそれと並行してプログレ・バンド四人囃子のサポートをやり、1974年の「郡山ワンステップフェスティバル」に主軸スタッフとして関わる。これは、キャロル、クリエーション、外道、サディスティック・ミカ・バンド、オノ・ヨーコなどが出演した語り草となっているロックフェスティバルだ。
 そして大久保青志は、このフェスのプロデューサーだった内田裕也のマネージャーになる。ロフト創始者の平野悠とはこの当時からの付き合いで、大滝詠一、細野晴臣といったティンパンアレイ系のバンドが出ていた荻窪ロフトに、内田裕也のツテで太田裕美をブッキングしたという思い出話が語られている。


日比谷野音のScrambling Rock'n'Roll 自由っていったいなんだい?


1984年8月4日。
 日比谷野外音楽堂でロックフェスが開催された。
 多くの観客の目当てはトリに出演予定の浜田省吾だった。白竜、ザ・ルースターズ、加藤登紀子、タケカワ・ユキヒデという知られた名前もあった。また、ZELDAやARBが飛び入り参加するとも言われていた。
 しかし、この日の話題を一人でかっさらっていったのは、デビュー間もないほぼ無名の新人男性アーティストだった。彼は演奏の途中で、高さ7メートルの照明設備によじ登り、そこから飛び降りた。彼は左足を骨折しながらも、ステージに這いつくばりながら最後まで歌いきった。

 彼の名前は、尾崎豊。

「伝説のダイブ」として語られるこのステージこそ、第1回「アトミック・カフェ・フェスティバル」である。
 尾崎豊ファンなら誰もが知る有名なパフォーマンスだが、これが「音楽を通じて反核・脱原発を訴えていく」というテーマのロックフェスで、大久保青志が主催していたことはあまり知られていない。そして、このフェスの制作が後にフジロックを主催するスマッシュの日高正博だったことも。
「アトミック・カフェ・フェスティバル」(ACF)はその後も会場をライブハウスなどに変えながら1987年8月まで開催され、ザ・ブルーハーツ、エコーズ、有頂天、シオン、レッド・ウォーリアーズ、BOØWYら多くのミュージシャンが出演した。


「アトミックカフェ」と「青生舎」


 大久保青志と保坂展人には早くから交流があり「アトミック・カフェ・フェスティバル」(ACF)の活動には、保坂展人の主宰する「青生舎」も協力していた。
 全共闘世代に近い大久保青志より保坂展人は4歳下だが、「麹町中学校内申書事件」で知られるように中学生の時から活動家であり、反管理教育の闘士として1976年から運営を始めた「青生舎」と、ミニコミ誌「学校開放新聞」は、暴走族になるほどバカじゃない反抗期の若者たちに支持され、全共闘以後の市民活動家を育てた。
『オイこら!学校』の藤井誠二や、『ぼくの高校退学宣言』の外山恒一、退学処分にされた土佐女子高校と裁判で争った西原理恵子、極左エロマンガ家の山本夜羽音、『九月、東京の路上で』の加藤直樹こと鹿島拾市など。
 したがって、「青生舎」と「ACF」の関係者は重なることが多く、ブルーハーツの甲本ヒロトと真島昌利や、エコーズとしてデビュー前の辻仁成、そして社会学者の小熊英二もスタッフとして関わっていた。



土井たか子チルドレン、保坂展人、辻元清美、福島瑞穂、大久保青志


 今からすれば日本中が狂っていたとしか思えないが、1989年の参院選で、日本社会党が46議席を獲得し、初めて改選第一党となった。
 憲政史上初の女性党首となった土井たか子の人気絶頂期で、「土井ブーム(おたかさんブーム)」、「マドンナブーム(旋風)」と呼ばれた。
 大久保青志は『ロッキング・オン』を辞めて、土井たか子の秘書になり、この年に東京都議会選に立候補してトップ当選する。
 1994年に社会党は、自民党、新党さきがけとの連立政権を組んだものの、翌年の参院選で惨敗し、1996年に社会民主党に改称する。そしてこの年、いずれも土井たか子の要請で、反管理教育の保坂展人、ピースボート創立者の辻元清美、市民団体代表の中川智子が衆議院選挙に出馬し、当選した。
 1998年の参議院選挙では、とうとう福島瑞穂が当選する。これに、2000年の衆議院選で当選した北川れん子らを含めて、「土井(たか子)チルドレン」と呼ばれた。大久保青志は二期目の選挙で落選したため、國弘正雄、保坂展人、辻元清美の政策秘書となる。
 土井たか子は市民運動に理解があったと言われるが、ようするにこういう左巻きの連中をオルグしていたのだ。
「素人の乱」の松本哉によれば、社民党は学生や市民運動家に声をかけてくると言い、自身も大学で「闘争」をしていた時に声をかけられて、社民党系の「平和市民委員会」で雑用のアルバイトをしたと語っている。


「たかが電気」と坂本龍一は言った。政治デモ専門会社・レーベン企画


 大久保青志は2005年の都議会選挙に社民党から出馬するも、再び落選。公約の柱は憲法9条の堅持と反戦・反核。
 都政と国政の違いもわかってないようだ。

 2011年の東日本大震災を機に、大久保青志は株式会社レーベン企画の代表取締役に就任し、ロックコンサートの運営で培ったノウハウを政治デモにそのまま適用し、成功を収める。2012年7月16日の「さようなら原発10万人集会」では、代々木公園に主催者発表17万人、警視庁発表7万人の参加者を集めた。(こういうのはたいてい主催者発表の人数の方が多い)。
 坂本龍一が「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさなければいけないのでしょうか」とスマホの画面を見ながらスピーチした、あの集会である。この時の映像を見ると、ステージの設営から観客の配置、マイクやアンプ、スピーカーのセッティングまで野外ロックフェスのスタイルがそのまま踏襲されているのがわかる。

 数万人の観客を集めるロックフェスの運営で鍛えられた大久保青志の「レーベン企画」がそのノウハウを政治デモに持ち込むことによって、これ以降のデモや集会は大きく様変わりする。
 それまでは香山リカが言うように、「左翼の集まりって、着物を着てデモをしましょうとか、ほんとにダサくてしょうがない。永六輔さんとか、そのへんの人と一緒にやったんだけど、ちょっとこれじゃあ世の中に通らないだろうと」(『ポケットは80年代がいっぱい』P198)、というようなレベルだったが、デモに若者たちが集まるようになった。

 それを象徴するのが、SEALDs(シールズ)によるサウンド・デモと、国会議事堂前に10万人を集めた反政府・抗議集会である。小熊英二と石崎俊一がこれをもとにドキュメンタリー映画『首相官邸の前で』を制作した。SEALDs(シールズ)の奥田愛基が、ラップのリズムに合わせて「民主主義ってなんだ!」「安倍はやめろ!」などとマイク片手に叫んでいた姿は多くの人の知るところである。

 あれは、まるでロックコンサートのようだと言われたが、まさしくその運営システムも音響機材も、ロックコンサートそのものだったのだ。
 ロックフェスの動員力と熱狂をそのまま政治利用することの有効性は、選挙運動でも実証され、無名の新人候補でミュージシャンであった三宅洋平は「選挙フェス」と銘打った街頭ライブ型政治演説を行うことで、落選したものの17万票以上を集めた。
 現在、大久保青志は代表ではないが、株式会社レーベン企画は立憲民主党の政治活動サポートを公式に掲げている。
 公式サイトの案内から引用しよう。

㈱レーベン企画は今後も以下の業務に拘り突き進みます。
・立憲民主党政治活動サポート&選挙ハンドリング・政見放送作成
・立憲民主党広報板作成・立憲グッズ作成頒布・本部主催街宣運営
・総がかり行動実行委主催行動サポート・さようなら原発全国集会運営・憲法集会運営・石川一雄さん再審要求全国集会運営
・連合メーデー中央大会運営・ホテルラングウッド WEBセミナー運営・退職者連合行事運営・労福協行事サポート
・ろうきん営業推進行事・自治体イベント・国会包囲行動運営
以上、連合の運動。友誼政党の活動サポートに加えて市民運動の下支えに専念します。
こうした皆さんから”必要ない”と言われたら会社を解散します。
引き続き私たちと一緒に汗を流しましょう。目指すは政権交代!

株式会社レーベン企画


「反原発」コネクション 坂本龍一、小山田圭吾、津田大介、青葉市子、タワレコ


 トヨタ自動車のCMをやりながらエコロジーを語り、「さようなら原発10万人集会」で、スマホの画面を見ながら「たかが電気」とスピーチした坂本龍一もまた、反原発をテーマとした「NO NUKES(ノー・ニュークス)」というロックフェスを始める。
 2012年の第1回には、YMO+小山田圭吾+高田漣+権藤知彦。翌年は、青葉市子+坂本龍一+小山田圭吾+ASA-CHANG、というユニットで小山田圭吾が出演している。

 2013年元日にOAされたNHK-FM「坂本龍一 ニューイヤー・スペシャル」では、細野晴臣、坂本龍一、小山田圭吾、青葉市子、U-zhaanによるスタジオ・セッションが行われ、これが『青葉市子と妖精たち』というタイトルでCD化される。
 このメンバーで、同年タワーレコードがキャンペーン展開していた「NO MUSIC, NO LIFE.」のポスターにも出演する。
 タワーレコードは「フジロック・フェスティバル」「サマー・ソニック」「ロック・イン・ジャパン」に協賛してきており、日本のロックフェスを支える重要な企業であるとともに、環境問題等の社会貢献活動にも熱心に取り組んでいる。
 フジロックでは2011年に大久保青志が主催する反核・反原発イベント「アトミックカフェ」が復活したが、それについても2012年のサイトで、次のように協賛を表明している。

また、フジロックは毎年「自然との共生」を掲げ、ステージ運営に必要な電力をバイオディーゼルや太陽光などの自然エネルギーでまかなう取り組み「New Power Gear」を通じて来場者がエネルギーのあり方について考えるきっかけを作ってきました。
 タワーレコードは今年もこの取り組みに賛同し、サポートしていきます。
 この取り組みによって運営している「New Power Gear Field / AVALONエリア」で、今年も反核・脱原発イベント『ザ・アトミックカフェ』の開催が決定!
 ライヴ出演アーティストやトークゲストは後日発表されますので、是非お見逃しなく!

TOWER RECORDS ON LINE  2012年04月19日

 2016年4月24日。福島県いわき市で、「青葉市子 with 小山田圭吾 & U-zhaan」としてライブが行われる。これを主催したのが、ずっと小山田圭吾を擁護している津田大介である。

 2021年以降は、「NO NUKES」から「D2021」と名称が変わる。
 坂本龍一の他、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)のゴッチ(Gotch)こと後藤正文や、永井玲衣(哲学研究者)が加わり、パフォーマンスなど多彩なイベントが行われている。
 この運営には、中原一歩と石崎俊一と共に「合同会社GENAU(ゲナウ)」を創業した田代怜奈も関わっている。

フジロックで「アトミックカフェ」が復活、津田大介、日高正博、後藤正文


1997年。
 この年の夏から「フジロックフェスティバル」が始まる。主催する株式会社スマッシュ代表の日高正博は、「アトミックカフェ・フェスティバル」の制作を通じて大久保青志と親交があった。

 フジロックがモデルとしたのが、イングランドの「グラストンベリー・フェスティバル」である。このフェスは、1981年より反核運動団体のCND(Campaign for Nuclear Disarmament)を支援している。平和運動や反戦運動のシンボルとして知られるピースマークがあるが、円の中に鳥の足跡のような形のあれは、もともと反核運動団体(CND)のロゴマークである。
 音楽と政治は最初から結びついており、会場内ではグリーンピースやアムネスティ・インターナショナル、労働党の議員などが自分たちのメッセージをアピールしている。

 スマッシュ代表の日高正博にはもともと、グラストンベリー・フェスティバルのように、NGOをフジロックにも呼びたいという考えがあった。それを大久保青志が引き受けて「NGOヴィレッジ村長」となり、参加するNGO団体を選び、2000年に「来場者とNGOが出会うきっかけの場」として会場内にNGO団体のブースが設けられる。

 福島第一原発事故後の2011年には、長らく休止していた反核・脱原発を訴える「アトミックカフェ・フェスティバル」がフジロックで復活する。
 2016年のフジロック「アトミック・カフェ」では、SEALDs(シールズ)の奥田愛基と、ジャーナリストの津田大介が出演すると発表されて、「フジロックに政治を持ち込むな」という論争が巻き起こった。ここまで述べてきたように、フジロックこそ政治の場なのだ。なにをいまさら、である。

 ちなみに昨年の「アトミック・カフェ」の出演者は、コロナ関連での辞退者も含めて、村本大輔(ウーマンラッシュアワー)、片平里菜、エセタイマーズ(後藤正文、細美武士、TOSHI-LOW、恒岡章)、津田大介(辞退)、小泉今日子(辞退)、上田ケンジ(辞退)、渡辺シュンスケ(辞退)、斎藤幸平(辞退)、である。
 東京オリンピックに反対しながらフジロックに出演したゴッチこと後藤正文は、『タイマーズのテーマ』の替え歌で、「ガースーもうやめてくれ、棒読み答弁聞きたくない」と歌ったことでさらに炎上した。


津田大介の父親は社会党・高沢寅男の秘書、音楽ナタリー、牧村憲一


 津田大介の両親はともに社会主義協会派の左翼活動家で、父親は日本社会党の副委員長を務めた高沢寅男の私設秘書をやっていた。津田大介は、中学時代に「しんぶん赤旗」を読んで、それが「物書き」になるきっかけになったと語っている。(「しんぶん赤旗」2011年7月21日)。
 大久保青志はこの両親をよく知っていて、津田大介を自分の後継者と見込んで「アトミック・カフェ」のナビゲーターに起用したのである。
 大久保青志の自伝から、津田大介について語っている部分を引用しよう。

 ジャーナリストの津田大介をアトミック・カフェのナビゲーターに起用した理由は、80年代からずっとやってきて、関わる人間も高齢化してきたなか、続けていくにはもっと若い人たちに人気の人材を起用したほうがいいんじゃないかと思ったからだ。もともと彼はフジロッカーで毎年会場には来ていたし、非常に発信力を持っている人だし、それ以前に保坂展人のところでトークをしてもらったこともあった。彼のお父さんは、社会党の高沢寅男という代議士の秘書で、もともと本人も社会党にはシンパシーを持っていた。親父さんもお母さんも社会主義協会というところに所属する、社会党の中でも最左派の人たちで、僕は以前からよく存じ上げている。ただ、息子についてはメディアに出てきた時にはじめて知った。

『フェスとデモを進化させる 「音楽に政治を持ち込むな」ってなんだ!?』イースト・プレス

 大久保青志とその自伝の企画・構成をした増井修は、『ロッキング・オン』の同僚である。増井修は、1990年から7年間『ロッキング・オン』の編集長となるが、渋谷陽一と衝突して解雇され、それを不当解雇であるとして裁判で争った(和解)。

 前述したが、ずっと小山田圭吾を擁護している津田大介は、2016年4月24日に福島県いわき市で、「青葉市子 with 小山田圭吾 & U-zhaan」のライブを主催している。
 津田大介は牧村憲一と親交があり、共著で『未来型サバイバル音楽論―USTREAM、twitterは何を変えたのか』(中公新書ラクレ、2010年)を出版している。牧村憲一は、ポリスターレコードでフリッパーズ・ギターをプロデュース。フリッパーズ・ギター解散後は、小山田圭吾主宰の「トラットリア」レーベルを設立した。新宿ロフトの“ロフト・レーベル”に協力していたこともある。
 津田大介と宍戸留美による「Oil in Life」というネット配信番組があり、これは『未来型サバイバル音楽論』を実践すべく制作されたものだ。この番組のゲストにロフト創始者の平野悠と、ロフトプロジェクト社長の加藤梅造が出演している。(2020年7月20日)。

「音楽ナタリー」という音楽ニュースメディアがあるが、この運営会社である株式会社ナターシャは、津田大介と大山卓也が共同で創業したものである。
 タラ・ハント著、村井章子訳『ツイッターノミクス』(文藝春秋)の解説で、津田大介は次のように書いている。

僕は普段の著述活動と並行してエンターテイメント系のウェブニュース媒体である「ナタリー」というサイトの運営にも携わっている。ナタリーを運営する株式会社ナターシャの社長・大山卓也とは02年にブログの運営を通じて友人になり、05年に共同でナターシャを創業した。その後、多くの人材がナターシャに入社したが、中心メンバーのほとんどは僕や大山がネットを通じて知り合った人材ばかりである。

解説 津田大介|タラ・ハント『ツイッターノミクス』村井章子=訳 津田大介=解説|特設サイト|文藝春秋





左翼の伝統を孫の代まで伝える 君はロックなんか聴かない


 原子力発電によって作られた電気を大量に使うロックフェスで反原発を訴えることの矛盾は、誰もが指摘するところだ。
 そもそも社会運動には具体的な目標設定が必要なはずで、反原発なら、何年後にどこの原発を何基停止にし、代わりの電力は何で補うのか、といったことを明確にしなければ、その運動が成功か失敗かもわからない。だが、「アトミックカフェ・フェスティバル」は反核・反原発という漠然としたメッセージを掲げるだけで、それで何をどうしたいのかを明確にしないまま何十年も活動を続けているのである。
 他の反原発運動も同様である。
 たとえば2011年6月に始まった「さようなら原発1000万人アクション」というのがある。内橋克人、大江健三郎、落合恵子、鎌田慧、坂本龍一、澤地久枝、瀬戸内寂聴、辻井喬、鶴見俊輔、が呼びかけ人となり、脱原発を実現するために1000万人の署名を集めることを目標に掲げている。しかし、11年が経つというのにまだ達成できない。(2022年1月26日現在、集まった署名数が、8,826,517筆)。
 そもそも、署名で原発が止まるのか。原発が止まるより、自分の心臓が止まる方が先ではないか。9人の呼びかけ人のうち、すでに4人が死んでいる。
 左翼ジジイはもうじき死ぬが、津田大介や田代怜奈のような後継者に思想と運動は受け継がれていく。


反原発はカネになる 子供だましのモンキービジネス


 逆に言えば、こうした運動がこれだけ長く続いてこれたのは、具体的な目標が何もなかったからである。原発がなくなれば運動も終わるが、そう簡単になくなるものでもない。むしろ運動を続けるためには、原発がなくなったら困る。 
 反核・反原発を訴えるだけで、なにやら反体制のかっこいい気分が味わえ、社会運動をやっているという自己満足にも浸ることができる。おまけに文化人として名声が得られ、ロックフェスで金儲けまでできるのだから、言うことなし。

 音楽や文化を通して人々の意識が変われば社会も変わるなどと空想を吹いて、社会問題解決のための具体的で地道な作業を軽視するこうした思想こそが、原発を延命させるのだ。ジョセフ・ヒースの『反逆の神話 「反体制」はカネになる』(ハヤカワ文庫)くらい読んだらどうか。

 大久保青志の前掲書によれば、忌野清志郎がタイマーズで反原発を歌った時、活動家の人たちが大喜びし、ぜひ集会に来てもらいたいとオファーした。だが忌野清志郎は、「表現として音楽業界の中で自分の言いたいことを歌ってはいるが、自分は決して活動家ではない。運動の中に入って歌うミュージシャンじゃないから断ります」と言ったという。
 腰が引けてるな、と思う。これなら堂々と活動家の集会で歌う頭脳警察のPANTAや、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬や、「制服向上委員会」の方がよほど筋が通っている。

子供だましのモンキービジネス
よってたかって分け前をあさる
子供だましのモンキービジネス
まともなやつはひとりもいねえぜ

RCサクセション『ドカドカうるさいR&Rバンド』作詞:忌野清志郎


全共闘くずれの左翼ジジイ、フジロックうたごえ運動


 音楽と政治との結びつきを考える上で無視できないものに「うたごえ運動」がある。戦後の原水爆禁止運動で言えば、1954年3月の第五福竜丸事件の後に、『原爆を許すまじ』(作詞:浅田石二、作曲:木下航二)という唄が作られ、うたごえ運動を通して広く歌われた。
 また、「歌ってマルクス、踊ってレーニン」と言われたように、それは日本共産党の指導による文化運動であり、組織拡充のためのオルグでもあった。武装闘争路線を放棄した共産党の方針に従い、非暴力の「うたごえ運動」に参加する学生組織(民青)の姿は、大島渚監督の映画『日本の夜と霧』で滑稽に描かれている。
 ようするに、フジロックとは「うたごえ運動」である。ロシア民謡や革命歌や労働歌が、ロックやヒップホップに代わっただけである。日本共産党が立憲民主党に代わっただけである。

 全共闘くずれの左翼ジジイが作ったステージで、ロックバンドが「歌って憲法9条、踊って反原発」である。ほんとにダサくてしょうがない。

「右翼ってどっちですか? 天皇の方?」制服向上委員会、エセタイマーズ


「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」や、政権批判の活動で知られる「制服向上委員会」というアイドルグループがいる。彼女たちに政治的な活動を行わせているのも、こうした全共闘くずれの左翼ジジイたちだ。

「制服向上委員会」が所属するのはアイドル・ジャパン・レコードというインディーズレーベルで、代表取締役が高橋廣行。
 もともとドラマーで、浅海章、灰野敬二らと「ロスト・アラーフ」という前衛的なバンドをやっていた。フラワー・トラベリン・バンドや村八分、裸のラリーズとも共演したことがある。

 高橋廣行と大久保青志は友人で、2005年に大久保青志が都議会選挙に出馬した時に、その応援のために憲法9条の歌を作ろうと思い立つ。これも古い知り合いであるフォークシンガーの中川五郎に作詞を頼み、それに頭脳警察のPANTAが曲をつけ、アイドルグループの制服向上委員会に歌わせるというのがきっかけだったのだ。
(参考:髙橋廣行『70年代ロック実話』アイドルジャパンレコード株式会社、2020年。 中川五郎『ぼくが歌う場所』平凡社、2021年)

 吉田豪によれば、制服向上委員会のメンバーは政治について知識も興味もなく、「右翼ってどっちですか? 天皇の方?」というレベルだという。それも当然である。かわいいアイドルになりたいと思って加入したのに、反原発のデモや集会で歌わされるなど「アイドルの皮をかぶった政治団体」としての活動をやらされ、辞めていくメンバーも多い。
 そんな彼女たちを笑うのはたやすいが、では、フジロックの「アトミックカフェ」に参加しているミュージシャンの政治意識だってどれほどのものなのか。全共闘くずれの左翼ジジイの言いなりになって、やらされているだけではないか。

 昨年、エセタイマーズとして出演したBRAHMANのTOSHI-LOWは、『タイマーズのテーマ』の替え歌で、「ネトウヨやめてよ、レイシストやめてよ、差別をやめてよ」と歌った。そのフジロックで、障害者への差別発言をした小山田圭吾が復帰する。
 エセタイマーズは小山田圭吾の前で「差別をやめてよ」と歌えるか。
 それとも「レイシストをしばき隊」が声を上げて闘ってくれるのは在日朝鮮人への差別だけで、障害者への差別はスルーか。

https://originalnews.nico/9034

https://tablo.jp/archives/3986

https://www.bookbang.jp/review/article/620682


フジロックのスポンサーに小山田圭吾の出演を問う


 小山田圭吾はなぜフジロックで復帰するのか。
 それはここまで読んでもらえたなら、もうおわかりだろう。小山田圭吾の障害者差別をこの25年間スルーして守ってきたお仲間が、大勢フジロックに関わっているからだ。外に向かっては反原発だの、差別をなくせだの、威勢のいいメッセ―セージを発信しながら、障害者差別には沈黙、身内には甘い、身内は守る。
 2011年。
 フジロックに出演予定だった制服向上委員会が、大手スポンサー企業の反対により、「ステージで反原発の歌は歌えない」との事で、出演が取りやめになったという騒動があった。真偽のほどは今もわからない。
 だが、脱原発に協賛する企業はいても、障害者差別を許す企業はどこにもいまい。主催者が小山田圭吾の復帰を許しても、スポンサーがそれを許すとは限らない。

さようなら障害者差別、1000万人アクション


 小山田圭吾を擁護する「こべに軍団」という迷惑集団がいて、多数の一般市民から、うらみを買っている。

https://twitter.com/Worldsendseqs  

https://mobile.twitter.com/1st_Q_AWARD 
 これらのアカウントは、私の記事に対して直接文句を言ってくるのではなく、ブログの運営会社に通報をするのだ。Twitterでも、自分の気に食わない意見を見つけると、運営会社に通報することで相手の言論を封殺してきた。
 自分だけが正義だと思っているのだ。

こういう連中に何を言っても無駄だ。こいつらのやっていることをそのまま、やり返してやればいい。こべにのネットショップは、特定商取引法違反の疑いで消費者庁に通報されている。
 フジロックのスポンサーである花王や大塚製薬やBEAMS(ビームス)に、小山田圭吾の復帰をどう思うのか問い合わせてみよう。「村上清のいじめ紀行」での小山田圭吾の発言を貼り付けて、これは障害者蔑視だとは思いませんか、と問い合わせてみよう。
 一般市民の声を、フジロックのスポンサー大企業に届けよう。
 さようなら障害者差別、1000万人アクション。
 署名を集めて原発を止めようとするより、よほど意義のある社会運動ではないか。

https://www.fujirockfestival.com/guide/outline#outline5

中原一歩研究(5)に続く


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