「ゴキブリ人間」7000字ほど


百聞は一見に如かず。よく聞くし、実際その通りだろう。けれどもこれは小説なので、諸君に「一見」してもらうわけにはいかない(一見できたら大事件だ)。さて、僕は、恥ずかしながら毒虫なのだ。どこぞの小説のように、人間が毒虫になったのではないぞ。僕はもともと、毒虫なのだ。僕は、英語ではコックローチ、日本語ではゴキブリと言われる生き物だ。僕はその日もそそくさと地を這い、埃や紙や、腐ったリンゴやチーズを貪っていた。これが僕らの本能であって、このことに僕らは快楽を感じるわけだ。さて、僕はゴキブリなのだが、ある医者、狂気の医者が、僕に人間の体を付属させた。というのもだね、諸君に僕の姿を一見してもらえないのが不便でならないのだが、百聞といわず十聞くらいでここは済ませようと思うが、僕は今、人間の肉体を持っている。頭の部分だけがゴキブリなのだ。といってもだ、ゴキブリの体はとても小さい。僕の頭を人間の首の上に移植させるだけでは、なんだか寂しいし、芸がないとその医者は思ったんだろうか、僕は体ごと、人間の頭部に当たる部分に座している。首無し人間の頭部に僕がそのままいると思ってくれていい。神経は体とつながるし、地を這うのを我慢して、直立二足歩行というんだったか、アレをする術も身に着けた。と言っても、やはり元来の本能は捨て去りがたい。家で誰もいないときは、地を這っているんだがね。人間の体はどうも歩くために作られているようで、地を這いにくいったらありゃしない。まいったね、どうも。ともかくだ、僕の状況というものを諸君もなんとなくはわかってくれたんではあるまいか。さてこれから、僕というゴキブリ人間を分かってもらうために僕が人間になってから苦労した出来事を語っていこうと思う。まず困ったのは、飲食物だ。僕は埃やら紙やらを食べていたので、人間が喰う食事には辟易させられた。しかしだ、僕らは雑食の中の雑食生物。雑食の王なのでまあたいていの物は食べられた。ベーコンだって、コンフレークだって、パンだって、コメだって食べるんだが、コーヒーというものがどうも受付けない。コーヒーは飲めないんだ。なんでだろうなあ、オレンジジュースや牛乳は飲めるのに、コーヒーはどうしても無理なんだ。人間のみんなはなぜかゴキブリ人間である僕にコーヒーを飲ませたがる。確かにコーヒーとゴキブリと言うのは何となくマッチしそうであることはわかる。それはわかるんだが、チロッと舐めただけで甲羅と言う甲羅に立つはずがない鳥肌が立つのだ。だからもう飲まない。飲みたくもない。後困るのは、女性との関係だ。僕はゴキブリだけれども、立派に性欲と言うものを持ち合わせているんだ。ガールフレンドだっている。(まあ実は彼女は僕と言う不具者を愛する自分を愛しているだけなのだが)僕たちゴキブリの性欲と言うのはすさまじいよ。人間というのはどうも最近の文明化の流れなのか、子供を作らない。僕たちにとってはありえない話だ!
僕たちは共食いしてでも子供を作りたい。日頃からそう思っている。だから相手は選ばない。雌と目があったらツーカーで子作り開始のゴングが鳴る。しかし君たち人間はどうだ、異性の前でもじもじすることが文明人の証とでもいうように、目を合わせ、離し、合わせては離し!まったくけしからんと僕は思うね。僕はこの体になってから、ゴキブリとしての異性とのコミュニケーション力と、人間の体が持つ、膨大な性欲とで、すぐつがい探しに奔走したよ。街を歩く女性に片っ端から声をかけた。ゴキブリにはもともと、発声器官がないもんだから、トランシーバーを通したようなか細い不快な声しか出せないんだが、それでも果敢に声をかけたよ。すると、どうだい、100人に無視され、5人に警察を呼ばれ、2人にびんたされた(これはやめてほしい。首がもげそうになる)が、1人の女性は僕とデートしてくれた。諸君、文明人諸君よ、こうしたことをなぜ諸君はやらないのか?子孫繫栄は諸君にとってどうでもよいことなのか?僕には不思議だ。さて、パートナーを手に入れた僕は、慣れない人間の体で行為をはじめようとする。服を脱ぎ、いざはじめようって時に、彼女が「まだはやいわ」と言った。おかしな話じゃないか。まだ早いって?今が早いならいつなんだと僕は叫んだよ。すると彼女は「キスからよ、キスから」さてこのキスが困った。僕は舌を持たないからキスをしようがないのだ。彼女は目を閉じ口を突き出す。うーんどうしようか。僕は全く参ってしまったので、仕方なしに僕の頭部を彼女の唇につけた。すると彼女が!僕の頭部を、すなわちゴキブリの体全体をしゃぶってきたではないか!これにはさすがに辟易したね。僕の頭部は丸のみにされ、彼女の口の中でベロに弄ばれ、時には歯がカチカチ甲羅に当たり、僕はゴキブリだった時すらこれほど浴びたことがないというような大量の唾
に溺れた。いやあ人間の女というのはなんと大胆!なんと不敵!僕はそら不快ではあった同時に人間を見直したね。彼女は満足したのか、僕を口の中から出してくれた。僕はぜえぜえ言いながら、トランシーバーのようなか細い声で「い、いまのはすごかった」と言った。彼女ニッコリ笑って、そこからは愛し合う男女の時間さ。彼女はマスコミの大御所の一人娘らしくてね。僕をテレビに出したいと懇願してきた。僕は
見世物にされるのは好きではない(だからいつも冷蔵庫の下やタンスの裏にいるのだ)から断ったんだが、愛する彼女はしつこくて、そこまで懇願されたんじゃ仕方ないと思って、承諾したんだ。あるトークショーに呼ばれてね。彼女と一緒に出演したんだ(彼女は共演も必ずと要求したんだ)、まあ笑いものにされたし、怒号も飛んだよ。その非難の的は、彼女にも向けられた。彼女はそれを予期していたかのように、「それでも… 彼を愛しているんです」と泣きながら言ったよ。僕はまあ半分嬉しくて、半分恐ろしくもあった。彼女は一躍有名になり、僕がいないところでも僕との生活や困った点などを語った。中には僕たちの性生活についても赤裸々に語っていて、僕はその仕返しのつもりでこれを書いているというのも理由の一つだ。僕は今、原稿の前に座って、鉛筆を走らせている。なぜパソコンではないのか
というと、ゴキブリの目ってのはとても光に弱いんだ。パソコンの光を見たら失明するかと思うくらいだ。だからこうして、原稿とにらめっこして、書いているわけだ。僕らは当然時の人さ。僕はある雑誌社からコラムを書かないかと頼まれてね「ゴキブリ人間の日常」というひねりのないタイトルで毎月連載している。こうして物を書いて諸君に読んで貰えているのも、そうした連載によって培われた文章力が活きてきているんだろうな。さて僕が書い
たコラムは大人気になりその雑誌社からは本当に感謝された。コラムを文庫にして出版したしその売れ行きは上々で20万部は売れたかな。これは快挙なのだと雑誌社の社長は言っていたな。「君にキスしたいくらいだ」って社長に言われて、僕は丁重にお断りしたよ。もちろんブラックジョークなんだろうけどさ。
僕はテレビなんかも出た。コラムニストが売れたらコメンテーターをやるというのが人間社会の決まり事らしい。僕はその時はもう、人間の体に慣れてきて、彼の体の中に流れる名
誉欲と言う欲求を満たしてやることにしていた。彼の心臓は人前に出ると鼓動を早くして、全身が燃えるように熱くなった。人に褒められるとこの体は、今にも飛び上がりそうになり、それを抑えるのは大変だった。僕はその見た目のインパクトと的確なコメントを認められ
(結構、新聞やらを読み込んで、ゴキブリ人間だからこそ言える世相をどんどん切っていった)視聴率も上がり、一躍人気コメンテーターとしての地位を確立した。さて、人気者につき物なのは世間からの嫉妬である。可愛い金持ちの彼女がいて、毎夜彼女を抱き(実際には週に一度だが、彼女の見栄で世間では毎夜ということになっている)、出版した本も売れ、テレビタレントとしても成功。普通の人間相手ならそれもまあ許せるが、相手がゴキブリ人間となっては鬱屈した精神も話が変わってくる。「あいつは見た目の奇異さゆえに売れているだけだ」「ゴキブリ人間でなかったらクソ人間に決まっている」という評価がなされていた。そして人間の最大中最大の特徴、差別意識というのも相まって、僕はある日暴漢に襲われた。家に入る直前に男3人に声をかけられる。「ゴキブリ人間だよな?」確認する必要もないの
に、緊張からか彼らは僕に問いただす。「そうだが」というと男の1人が拳銃を取り出した。その時、僕はゴキブリ人間であることを忘れ、一匹のゴキブリとなり、俊敏な動きで即座に足を屈め、その凶弾を交わし、地を這い男たちの足元をすくっていった。僕は気が付くと、家に帰ってきていた。彼らは今頃しりもちをついて伸びているだろう。そして誰か法治国家
を愛する精神が警察を呼んでくれているだろう。彼女はすでに家にいて、ハッっと息を飲んだ。「あなた… 」彼女がいう。うん?なんだ。鏡をのぞくと僕の顔は巨大なゴキブリの顔に
なっていた。小さかったゴキブリの体があったはずのそこにはゴキブリの顔だけが人間の頭部と同じ大きさで、あった。「ヒッ」と彼女は声を出した。「こんな姿でも愛してくれるかい」僕は彼女に問いただした。「あたし、あたし… 」「無理することはない」そう僕が言うと
彼女は走って家から飛び出してしまった。その後、僕は2人が使っていたベッドに腰を掛け、しばらくうなだれていた。僕の変化はまたも世間を騒がせた。それは根拠のない憶測を呼んだ。「彼はこのまま巨大なゴキブリとなって我々を食いつくすに違いない」「処分すべきだ」「いやいや動物愛護の精神に則って… 」「ゴキブリは動物愛護の対象外だ!」「ちょっとまて、彼はまだ人間の体を残しているわけで… 」僕は議論の渦中にひっそりとしていた。しかし僕とて恐怖を感じないわけではない。ゴキブリは人一倍恐怖を感じやすい。どうしたら人間社会に受け入れてもらえるか、1人になった部屋で考えていた。そこに一匹、かつての同士、ゴキブリが現れた。なん
と僕はそれを不快に感じてしまった!地を這う生き物!なんていやらしい動物だろう!そう、思ってしまった。ゴキブリはサササッと僕の足の下を通る。僕は、それを人間の足で思いっきり踏みつけた。足を上げるとゴキブリのグロテスクな血液が、たらたら流れ緑色に光った。僕はそれから、ゴキブリ駆除にまい進した。ゴキブリによる病気感染のリスク、ゴキブリが如何に人間の作る殺虫剤から生き延び、そのことによって如何に日ごろから人間をバカにしているか、僕は世間を先導し、一大ゴキブリ駆除ムーブメントを作り出した。僕は泣きながら、ゴキブリを駆除した。家にいるゴキブリも、森にいるゴキブリも、殺虫剤をまき散らしながら駆除した。次第に涙も出なくなっていた。僕は、僕は人間になりたかった。出ていった彼女は僕の活動を非難した。「ごめんね、でももうやめて… 」と彼女は電話で言った。でも僕はもう止まらなかった。止まれなかった。僕は同族を憎しみ、殺しまくった。
やがて街からゴキブリは消えた。
すると、案の定、考えたらわかることなのだが、僕から発されたゴキブリへ嫌悪は、行き場を失くして、僕に帰ってきた。僕と一緒になって、正義感からゴキブリを駆除した仲間たちは一層目を輝かせて僕を駆除しようとしてきた。僕は懇願した。みっともなく懇願した。「僕は人間です。僕は言葉も喋れるし、ゴキブリが嫌いです。僕の今までの活動がそれを証明しています。僕は皆さんの仲間です」「仲間だって」「ゴキブリのくせに」「はやく駆除してやろう、それが彼への最大の敬意だ」そこで僕は悟りました。そうか、人間は行動や信念ではなく、見た目で判断するのだと。結局は見た目の違いが、正義の違いなんだと。僕は心の底から彼らの仲間に入りたかった。泣きながら同族を殺しまくった。心からゴキブリを憎み、殺したいと願った。しかし人間は認めてくれぬのだ。僕が人間の仲間であるとは認めてくれ
ぬのだ。僕は、絶望した。すると、僕の体の方、人間の方が喚くじゃないか。口がないのに喚くじゃないか。「みんな!聞いてくれ!僕は人間だ!この体は人間の体なんだ。助けてくれえ」そう喚いた。すると僕を取り囲む人間たちは「助けてやろう」という話になった。「これぞ人道主義だ」と嬉々として僕と、僕の肉体を切り離そうとナイフやら包丁やらをもって
近づいてきた。僕は泣きながら訴えた。「なぜなんです!なぜ彼はいいんです!彼とて頭部がないのに喋れる化け物ではありませんか」すると人間たちは口をそろえて「何を言っている、彼は人間で、君はゴキブリじゃないか」と言った。僕は捕らえられ、首を切断された。さて、ゴキブリと格闘したことがある諸君ならわかるだろうが、ゴキブリは首を切り離され
たからって死なない。僕は僕にとどめを刺そうと、あるいは捕まえて標本にしようと近づいてきた何人かの顔面に食らいつき、喉を切り裂いた。「ゴキブリめ!」と誰かが言った。僕は頭部だけで、なんとか力を振り絞り、転がり続け、やがて森へと出た。森には僕が追いやったゴキブリたちがいた。ゴキブリたちは僕に近づいてきた。そこの首領だろうか、異様な姿をしたゴキブリがいた。そのゴキブリにはなんと、人間の頭部が付いて
いた。「あ、あ、それは」それは紛れもなく、僕の肉体で、その頭部は僕が使っていた人間の頭部だった。僕とは反対に、その頭部はゴキブリの体ほど小さくなっていた。「君、君は… 」僕は言った。
「僕はここの生活が気に入ったよ」人間ゴキブリは言った。
「気に入ったって?」僕は吐き捨てた。ゴキブリたちはじわりじわりと僕を取り囲み、近づいてくる。
「結構だね!こんな生活を気に入っただって?」
「気に入ったよ、君と同じように、つがいを見つけた」そう言って人間ゴキブリの横に一匹の可愛い雌ゴキブリが寄り添う。彼女は僕を渾身の憎悪を込めた目で睨む。
「君はとんでもないことをした」人間ゴキブリは呟く。「君の生活はうまくいっていたのに
… なぜあんなことを」
「だって、だって僕は… 」僕は涙を流していた。「人間になりたかった」
「本当に?」彼は言った。「本当に人間になりたかったのかい?」
ああそうか、と僕は気が付いた。「そうか、僕が欲しかったのは、彼女だったんだな… 」
「そうさ」「君には、負けたよ」と言って僕は笑った。
「僕は仲間もいないし、彼女もいない、君にはこんなに大勢の仲間と素敵な彼女がいる」
「ああ、子供も近々生まれるよ」と彼は言った。「そうかい」と僕は呟いた。
僕はゴキブリたちに食い尽くされた。当然の報いだ。しかしゴキブリにしては巨大な僕の頭部のあらかたが食べられると、僕の本来の、ゴキブリだった時の頭だけが残った。「ああ」と僕は言った。「ゴキブリに戻れた」と。
「今、君が彼らに食べられた分で、彼らは君に殺された以上のゴキブリを産めるだろう」と彼は言った。「だから、もういいんだ」
「ありがとう」
「さてと」と言って彼は彼の恋人に自分の人間の頭部を食いちぎらせた。「僕は僕の体に戻
るよ」
「送らせてくれ」と元の体に戻り、僕は言った。
「そうかい、じゃ、頼むよ」
僕らゴキブリの大群は、ゴキブリの体から切り離され、人間の大きさに戻った彼の頭を背中に乗せ、ぞろぞろ、ぞろぞろと街へ向かった。人々は悲鳴をあげる。それを無視して、彼の体を探しに行く。「どこだ、どこだ」「あっちだ、あっちに感じる」僕らが向かった先は、僕の家だった。「あそこにある」と彼は言った。家に入ると、そこには彼の体が横たわっていた。そして、なんと僕の彼女もいた!彼女は僕が使っていた体を見て、涙を流しているではないか。それを見て、僕も泣きそうになった。
「やあ」彼は彼女にしゃべりかける。
「ヒッ」と彼女は声を震わす。
「叫ばないで、それを取りに来た」ゴキブリ大群の上に乗り、彼は自分の体を見やる。「悪いが、手伝ってくれないか」彼女はコクリとうなずき、彼の頭部は彼の体に収まる。彼は人間に戻り、立ち上がる。「ありがとう」
「ああ、あなたね」彼女は僕を見て声を出す。「僕が分かるのかい?」「当たり前よ」そう言って彼女は僕に、例のキスをする。それを見ていたゴキブリたちはドン引きした。「相変わらずだ」僕は笑う。「あなたも、変わらず」彼女は微笑む。
「そうだ!」と人間の彼は声を出す。「これかもこうやって会おうじゃないか!君は僕の彼女をここに連れてきてくれ!そしてこの部屋で君と君の彼女も会ったらいい!」
「名案だね!」と僕は言った。
それから僕たちは、彼と彼の彼女、僕と僕の彼女の4人で過ごした。僕は二度と人間に戻るものかと思った。彼はたまにはゴキブリに戻りたいと言っていたけれど。
そして僕たちの子供が生まれた。それは人間の頭部を持ったゴキブリと、ゴキブリの頭部を
持った人間だった。
                                  4人の内、誰かが悲鳴を上げた。

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