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空想考古学・邪馬台国はココだ!(番外編) 邪馬台国と淡路島

 今回は、魏志倭人伝から少し離れて、邪馬台国と古事記の関係について空想したいと思います。古事記はご存知のように、魏志倭人伝よりずっと後の歴史書ですので、直接の関係はありません。しかし大和王権が多少なりとも邪馬台国の影響を受けているなら、その痕跡が古事記の中に残っている可能性(?)があります。

 古事記の最初の部分で有名なのが「国生み」の場面です。イザナギとイザナミのみこと二柱ふたはしらが協力して、”日本列島”を作ります。最初に作成に成功した島は「淡路島」です。日本で一番大きな島は本州ですが、本土を除けば淡路島の大きさは1)択捉島、2)国後島、3)佐渡島、4)奄美大島、5)対馬に次ぐ6番目の大きさです。古事記の当時は北海道は日本に含まれていないので除くとしても、淡路島より大きな島は3つもあります。それなのに、どうして淡路島が一番最初にできた島なのでしょうか?。

 空想考古学では、一貫して「邪馬台国=奄美大島」説を主張しています。地図で見ると、淡路島の形は奄美大島の形とよく似ています。また、島の面積も同程度です。また、島の名前も淡路(Awaji)と奄美(Amami)でよく似ています。これは偶然でしょうか?。

 航海が得意な海洋帝国である邪馬台国も、苦労の多い移動生活から、安定した定住生活の方に舵を切るのは、自然な流れです。邪馬台国にもその兆しがあって、投馬国や奴国などの多くの人口を抱える国ができ始めています。

 アワジの由来はこんなだったのかもしれません。アマミ出身の邪馬台国の航海民たちは、瀬戸内海の航海の途中で、故郷のアマミとそっくりな島を発見して驚きました。彼らはその島を”アマミ”と名付けましたが、徐々に名前が変化してアマミ⇒アマジ⇒アワジになったのではないかと想像します。つまり、淡路島は海の民にとって、奄美に次ぐ重要な島だったのです。しかし古事記の中では奄美は(意図的に?)触れられていません。

 その当時の奄美大島に人が住んでいたの?、と思われるかもしれませんが、福岡県太宰府市の大宰府政庁跡で発見された資料(木簡?)には、奄美大島から税として特産品を納めた記録が残っているそうです。

 古事記でもう一つ気になるのは、本州の呼称である秋津島/秋津洲(あきつしま/あきづしま)です。秋津というのはトンボの古称で、神武天皇が国土を一望してトンボのようだと言ったことがその由来とされています。本州は確かにトンボのように細長いですが、正確な日本地図などが無い時代に「どうして本州の形がわかったの?」という疑問が生じます。

 一ヶ所の定住する農耕民には、本州の形などは知り得ない情報です。しかし、船で移動を繰り返す海の民なら、本州の正確な形までは分からないにしても、長年の経験で細長いことは分かると思います。

 古事記の中に、海の民(邪馬台国の末裔)の痕跡が残されていると思うのは、私だけでしょうか?。

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