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ブレイディみかこ 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んで"ちょっと”考えたこと(「エンパシー」について)

 図書館に予約してから半年以上は待ったような気がするが、この夏、やっと順番が回ってきて、読むことができた。英語で書かれたサブタイトルが、"The Real British Secondary School Days”だったのを見て、やっと中身の予想がついた。それまでは、ベストセラーで、図書館での予約が数十も入っている話題の本という漠然とした印象しか持っていなかった。ちょうど2−3ヶ月前から、岩波書店の雑誌「図書」で、「谷川俊太郎とブレイディみかこの往復書簡」の掲載が始まったところでもあった。ブレイディみかこの方は、真剣に話しかけているようなんだけれど、谷川俊太郎の方は、散文は苦手とか言って、詩で返信するから、なんだか噛み合っているのか噛み合っていないのかよくわからないのが面白い。とりわけ、今年(2022年)7月号のブレイディみかこの「青空」という書簡は、「この世」と「あの世」のあわいを表現する「"その”世」という言葉が表現しうる、日本語と日本的な感覚について言及しつつ、谷川俊太郎の新刊「ぼく」という作品について深い思いを巡らしていて、魅力的だった。

*絵本「ぼく」は、従来の絵本の枠を大きく逸脱しているとも取れる、とても"特異”な内容の絵本である。これはこれで別途紹介したい絵本。

 さて、『ぼくはイエローで、、、』は、ロンドンの金融街シティの銀行をリストラされてダンプの運転手になったアイルランド人の旦那との間にもうけた一人"息子”(名前は一度も出てこない)の学校生活の様々な出来事を通して見えてくる英国社会の人種や格差問題の実情と、学校や地域社会の中で様々な出来事を体験しながら成長していく息子を含む子どもたちの様子が、対等な友達感覚で接する母親の視線で描かれている。経済的、社会的な地位という観点から見れば、Lower Classに分類されてしまう家族だろうが、そういう社会を客観的に眺めていて、過敏な反発などはまったく見せず、身近な生活を大切にして生きている様子が感じられて、好感が持てる。

 タイトルは、学校生活で、いろいろな問題にぶつかって、自分のアイデンティティに悩み出した息子が、ノートに落書きした文だった。しかし、この物語の最後に、環境問題デモに参加できなかった息子が、「いまはどっちかっていうと、グリーン」という。

 そして、「グリーンって『環境問題』とか『嫉妬』とかいう意味もあるけど、『未熟』とか『経験が足りない』っていう意味もあるでしょ。僕はいま、そのカラーなんだと思う」という。親でなくても、ちょと感動する。

 それにしても、イギリスという国が、こんなに病んでいるとは知らなかった。教育に関して言えば、「教育機関が市の福祉課の仕事を兼任しなくてはならない状況」。普段、毎日のように海外ニュースを視聴していて、比較的身近に感じている国だが、そうしたニュースからは、移民問題が絡んだ人種問題、階級格差、社会保障システムの崩壊など、真の姿を垣間見ることは難しいと実感した。

 そんなことを考えているうちに、イギリスの映画監督ケン・ローチとその作品が思い浮かんできた。そうだった。彼は、映画を通して長年、イギリスという国の階層社会の歪みに光を当ててきたのだった。例えば、『わたしは、ダニエル・ブレイク(I, Daniel Brake)』(2016年)では、「社会の作られた制度、仕組みは、本来の目的が見失われ、人々は、制度そのものを守るために働くことで、正しいことをしていると思うようになる。社会保障の様々な制度も、充実してくればしてくるほど、本来の機能を失って、助けるべき人を助けなくなっていく」ことを、鋭く、厳しく糾弾している。

 そのほか、この本を通して、1)「シンパシー」と「エンパシー」の違い、2)法は正しいってのがそもそも違う。法は世の中をうまく回していくためのものだから、必ずしも正しいわけじゃない・・・、3)「誰かの靴を履いてみる」という表現が意味する思想、4)「ライフスキル教育」という教科があって、エモーショナル・インテリジェンス(感情知能)、コミュニケーション能力、自己コントロール能力などを身につける教育が行われていること、など、普段あまり気にしてこなかった大切なことにも気づかされた。多くの青少年とその親に読まれるべき本だと思う。

 ここからがこの記事の本論である。
 エンパシーを「共感性」と表現(翻訳)すると、その本質的な意味がうまく伝わらない、あるいは誤解されて伝わるのではないかと感じるようになったということです。

 知人から、
「共感性研究の意義と課題」(Significance and Issues of Studies on Empathetic Systems)
 長谷川 寿 一  (東京大学)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/58/3/58_411/_pdf
という論文の存在を教えてもらった。

 この研究論文には、「・・・共感あるいは共感性とは何かについては,本特集の各論文でそれぞれ定義がなされ、その定義に 基づいて論考が展開されている。ではその定義が明確で、研究分野を超えて共有されているかといえばそうではない・・・」とあり、定義がスッキリしないまま、あちこちに議論、論考が展開されているので、その内容についても当然スッキリしないものになっているのではないかと思われる。

 この論文では、「Preston & de Waal (2002) における共感性関連用語の説明」(表1)が提示されており、そこでは、同情(sympathy)と共感(empathy)について、以下のように整理されている。

 同情(sympathy):対象者の苦痛を知覚する結果として,観察者 が対象者に「気の毒さ」 を感じること。情動状態の一致は無い。
 共感(empathy):対象者の状況や境遇を 正確に知覚する結果として、観察者が対象者 と同様な情動状態を抱くこと。すなわち情動状態の一致がある。

 これによると、同情(sympathy)の方は、他者への距離感、客観的な目線、立場が感じられ、相手が苦しんでいることはわかるが、自分がその苦しみを自分の痛みとして感じることはない。一方で、共感(empathy)の方は、対等の立場で感情的に理解する。すなわち、自分も相手の苦しみを自分の苦しみ、痛みとして感じる(情動状態の一致)ことのように受け取れる。

 広辞苑(第六版)では、
共感:sympathyの訳語。他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。
とあり、情動状態の一致という点では、上述のPreston & de Waalの定義に一致しているが、sympathyを訳語に当てている。一方、
同情:他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること。
とあり、他者との情動の一致、不一致という点では、「共感」との違いが判然としない。

 ロングマン英英辞典を調べてみると、
sympathy :
sensitivity to and understanding of the sufferings of other people, often expressed in a willingness to give help.
empathy:
ability to imagine oneself in the position of other person, and so to share and understand that person's feelings.

 つまり、広辞苑では(日本の文化社会的には)、「共感」を「同情」と別物とは区別していない(いなかった)。一方、英語圏の文化社会的には、sympathyとempathyという二つの異なる感情として(以前から)区別していた。そして、前者にはやはり、距離感を持った、客観的な目線があり、後者は自己を他者と同化させて同じ感情を持つ状態のように思われる。そして、大切なのは、Preston & de Waal、ロングマンの辞書のどちらも、「同様な情動状態を抱く share that person's feelings」という点が共通していることである。

 『ぼくはイエローで、、、』のなかで、ブレイディみかこは、次のように述べている。

 中学一年生の息子の期末試験で、「シティズンシップ・エデュケーション(公民教育)」の最初の問題に、「エンパシーとは何か」という問題が出題される。

 この「エンパシー」という言葉は「シンパシー」と混同されやすいということで、ケンブリッジ英英辞典のサイトを引用して、彼女の理解が説明される。

 「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」

 ポイントは、シンパシーの方は、「・・・人間が抱く感情なので、自分で努力をしなくても自然に出てくる」。しかし、エンパシーの方は、「自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」のこと。

 この解釈は、前述した研究論文における「情動状態の一致」やロングマン英英辞典の「share that person's feelings 」とは一見、異なる解釈のように感じられる。一体どうしたことか・・・。

 ちょうどこの頃、NHKラジオの「カルチャーラジオ 日曜カルチャー」という番組で、「人間を考える~今"学ぶ”ということ」というシリーズ放送があった。偶然にも、聞き逃し放送で、その第4回(最終回)の鴻上尚史の回を聴いた。

 主題は、「現代を生きる上で、コミュニケーション能力をのばすことが大切であり学ぶべきものである」という観点から、特に「日本人と外国人のコミュニケーションのあり方」について語ったものであった。

 私には、日本社会を世界と大きく異なる姿にしている構造を、"世間”と"社会”いう概念を導入して解釈してみせてくれたのがとりわけ面白く、斬新で刺激的であった。さらに、日本社会をより開かれたものにする鍵を、「シンパシー」と「エンパシー」という感覚や感情で説明していた。そこでわかったのだが、鴻上尚史によるこの二つの感情の違いは、ブレイディみかこによる解釈と全く同じなのである。二人の、ディープな英国生活体験者が、(多分別々に)同じ解釈をたどり着いているのだとしたら、こちらが、現実を反映した理解なのだろうと自分なりに納得した。

 結論として、現時点では、「エンパシー」は「エンパシー」としか表現できないということのように感じる。

 まだまだ、議論を呼びそうなテーマである。

付記:
 この思考が頭を巡っているうちに、もう一つ、関連する題材に出会った。
アダム・スミスが、『国富論』に先立ち、自らの人間観、社会観を記した最初の著作『道徳感情論』。この著作は、第一部第一章(第一編)すなわち冒頭が、「"Sympathy”について」で始まっている。

 この著作には、いくつかの日本語訳があるが、
水田洋(岩波書店)「同感」
米林(未来社)「同情」
高哲雄(講談社)「共感」
村井章子(日経BP)「共感」
となっている。

 最も新しい翻訳で、最も読みやすい(と感じる)村井版では、
「当事者と同じ感情を抱くという意味を表す言葉としては、現代では「共感」がふさわしいと判断した。」
と説明している。この解釈もまた、前述の、研究論文、ロングマン英英辞典と(少なくとも表面的には)同じであるように思われる。

 なお、さらに余談ではあるが、村井章子翻訳版には、冒頭にノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センによる感動的な序文があり、この序文を読んだら、いかに長大といえども本文を読み通さずにはいられないだろう。

(終わり)

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